「8の殺人」(我孫子武丸)

「今日は、我孫子武丸の『8の殺人』を紹介するよ!」
「へえ。また推理小説?薄い本だねえ」
「うん、これは、文章も平明だし、サクサク話が進むし、いままで紹介してきた本のなかでも最も読みやすい一冊かもしれない。そこが食い足りないって人もいるだろうけど、小難しく書けばいい推理小説になるってわけじゃないからね」
「あれ?なんで三冊もあるの?」
「これはね、速水三兄妹シリーズといって…我孫子武丸が生み出した名探偵シリーズの連作と言ってもいい三冊なんだよ。どれも面白くて、三冊全部おススメなんだ」
「ふうん」
「あと、これは、ユーモア・ミステリーに区分されるんだろうけど、この三作のユーモアというか、ギャグは度を超していてね。ほとんどドタバタに近いようなシーンがふんだんに盛り込まれてるんだよ」
「へえ」
「初めて読んだときは、こんなふざけた、ギャグ満載の推理小説があるなんて!ギャグと怪奇推理との超絶な融合!と感動したものなんだよ。まあ、今読み返してみると、昨今、この系統のものは珍しくなくなってるから、衝撃度としては、他と比べてダントツにとはいかなくなってきてるけどね…」
「うん」
「それでも十分面白い!特に、推理小説をこれから読もうとしている若い人には、うってつけの本だね!『8の殺人』『0の殺人』『メビウスの殺人』の三冊が出てるから、一冊じゃ食い足りないって人には、三冊全部読んでほしいな。まあ、といっても、短い推理小説だから、小粒なところもあるとも言えるし、ここでおすすめの対象に選ぶというのも、この三冊全部ひっくるめての評価ということにしてほしいな」
「ふーん」
「この話は、こんな、犯人のモノローグから始まるのね。都内のある場所に、奇妙な建物が建っていた。8の字屋敷、と呼ばれるその屋敷は、全体が上空から見ると、8の字を描くように、部屋が配置されていた。ふたつの中庭を囲み、渡り廊下がふたつの円を描くように配置されている…」

この屋敷がわたしに、あるトリックを思いつかせたのだった。いや、思いついたというより、それは私に発見されるのを待っていたのかもしれない。(略)ただ私はこの美しい計画を実行するだけだ。(略)無実の人間を犯人に仕立て上げることについては、多少の罪悪感を覚えないでもなかったが、これもひとつの芸術と考えれば、彼もきっと分かってくれるだろう。

「この屋敷に住んでいるのは、建設会社の社長一家、創業者の老人、その息子夫婦、その書生、小間使い一家、という人々だった。十月のある夜、事件は起きた…」
「うん」
「夜中、奇妙な電話で起こされた、創業者の息子であり、現社長の蜂須賀菊一郎は、電話の指示どおり、三階の渡り廊下へおもむく…おりしも、娘の雪絵と秘書の河村美津子が、雪絵の寝室で、二人とも眠れず、起きてココアを飲んでいた。そこへ…」
「うん」
「二人は、渡り廊下に、誰かが歩いている足音を聞くのね。カーテンを開けてみると、菊一郎が、中庭の向こうに、立っているのが見えた…そして、使用人の矢部雄作の部屋の窓辺に、ボウガンを構える人影が見えた。ボウガンは発射され、その矢は菊一郎の胸をふかぶかと貫いた…」
「うんうん」
「そのあと二人は、正体のわからない人間に殴られて、気を失ってしまうのね。あとに残されたのは、ボウガンの矢で斬殺された菊一郎の死体と、理由はわからないが、死体をひきずった跡だけだった」
「うん」
「事件発生の翌朝、警視庁から派遣されたのは、速水恭三、三十五歳の刑事、独身。この刑事が主人公なのね。ドジな刑事で惚れっぽい所もある恭三は、現場で出会った雪絵の美しさに一目ぼれしてしまう。勇躍し、第一容疑者の矢野雄作を逮捕しようとするが…」

「(略)君は事件のあったとき、鍵を掛けた部屋の中にいた。君は寝ていたというが、それは嘘だ。君が菊一郎氏を殺し、それを目撃した河村美津子さんと蜂須賀雪絵さんを襲ったんだからね」
(略)「違う!僕じゃない!どうして僕が殺したと…」

「矢野雄作は警察に拘束される。これで、事件は一件落着かに見えた。しかし、速水恭三は、腑に落ちないものを感じた。」

「何か妙なんだな」
と、速水慎二の入れてくれたコーヒーを飲みながら、恭三は呟いた。
夕刻、弟である慎二の経営する喫茶店『サニーサイドアップ』に立ち寄ってのことである。

「この速水慎二という弟と、その下の妹の大学生、速水いちおが、大の推理小説マニアで、不可解な事件があると、彼らの好奇心は爆発し、恭三にさまざまなヒントをあたえてくれるのだった。この凸凹三姉妹のやりとりが、読んでて、楽しいんだよね。」

「雄作が犯人としてだな。自分のボウガンで自分の部屋から人を殺しておいて、いけしゃあしゃあと、鍵を掛けて寝てましたなんて言うと思うか?」
「目撃者がいたとは思わなかったのかもよ…あ、そうか」
(略)「そうなんだ。犯人は目撃されたことを知ってるはずなんだ。二人の目撃者を襲ってるんだからな。これもよく分からんのだ。犯行を見られたからにしては、ただ殴って気絶させるだけってのは変だろう?口封じに殺すか、殺すのが嫌なら、普通逃げ出すもんだがねえ」
(略)「それより僕は、死体が少しだけ動かされたってことのほうが気になるなあ」
「だからそれは死体を隠そうとして、諦めたんじゃないかって…」
「目撃者が二人もいるのに、隠してどうなるっていうの?(略)」

「ここから会話は、古今東西の推理小説のトリックを披歴して、不可能殺人談義になるのね。この部分が、また、面白いんだよ。一方、現実の捜査では、屋敷内の、一癖も二癖もある怪しい人物たちへの聞き込みが行なわれていた…。創業者の蜂須賀菊雄老人、その妻、民子、被害者の妻である節子夫人、被害者弟で遊び人の菊二、秘書で腺病質な佐伯、など…彼等には、夜中ということもあり、ほぼ全員が寝ていたと証言し、そのアリバイを証明するものはいない…」
「うん」
「いったんは雄作犯人説で終息したかに見えるこの事件に疑問を抱いていた速水恭三は、聞き込みのうちに、何か怪しい予感を感じる。果たして、第三者が雄作の部屋に侵入し、ボウガンを撃つことが可能だったか?速水は、推理をめぐらせる…。その中で、相棒の若い刑事、木下が…」

「(略)窓から窓へ飛び移れないかな、と思ったんですが―」
窓から窓へ飛び移れるなら、隣の空き部屋からこの雄作の部屋へ、窓から侵入することができる。
「なるほど…。やってみろ」
若い刑事は。信じられない、といった顔で恭三を振り返った。
「さ、三階ですよ、ここ?―へたすりゃあの世行きってことだって…」
恭三は笑い飛ばした。
「頭から落ちなきゃ大丈夫さ(略)」
木下は猫のように襟を掴まれ、窓外に押し出されてしまった。
「け、警部補、しっかり持っててくださいよ。僕まだ六十年は生きるつもりですからね。もし死んだら、警部補が死ぬまで祟りますよ、ほんとですよ。冗談じゃないですよ」
(略)「弱音を吐くな!そんなことでこの先警官が務まると思ってるのか!」
恭三は勝手なことを言っている。
「いいです、もう!田舎に帰って、乾物屋を継ぎます!」
「やかましい!早くしないと俺が突き落とすぞ!」
(略)「ど、どうしましょう、これから?」
「向こうの窓を開けて飛び込め」
(略)その時、恭三はあることを思い出したが、一瞬遅かった。足を滑らせた木下は、呪いの言葉を吐きながら落下していった。
「あああ!祟ってやるうううう!」
「木下あ!悪い!そこの窓、鍵閉まってたんだ!」

「こうしたドタバタ騒ぎのなかでも、怪しい人物が浮かび上がっては、消えていく…。そして、速水警部補と木下刑事が屋敷に泊まりこんだ或る夜、第二の殺人が行なわれた…。被害者は河村美津子。しかも、現場はオートロックされた完全な密室だった。彼女は、ボウガンで体を貫かれ、ドアに磔にされていた。矢の方角からいって、ボウガンは、中庭の空中から発射されたとしか思えない。しかし、そんな事があるのだろうか?そして、まさに、その夜、二階の窓の外を浮遊する、ボウガンの姿が、母親の民子によって目撃されていた…」
「うん」
「その夜廊下は、完全に二人の刑事によって監視されていたのね。にもかかわらず、殺人は行われた。本当に、中空を舞う不思議なボウガンによって、殺人は行われたのか…」

ボウガンが勝手に飛び回って河村美津子を殺したとでもいうのだろうか?
(略)「悲鳴を聞いて俺が駆け付けるまで、ほんの数秒だ。多目に見て十秒にしてもいい。たった十秒の間に、美津子の部屋の窓から外へ出て、自分の部屋に戻る方法などあると思うかね?(略)」
「(略)犯人は一体どうやって三階の窓を出入りしたんです?屋上からロープで侵入したとでも?」
「屋上からねえ…なるほど」
恭三は、(略)ちらりと隣の木下を見る。
木下はその視線を敏感に感じ取ったのか、ずぐに青い顔をして震え出した。
「い、嫌だ。警部補…もう嫌です」
「俺は何も言ってないよ」
(略)「その目つき…あの時と一緒だ。今度も僕にやらせるつもりなんだ。言っときますけどね、僕はまだ怪我人なんですよ?その僕にまた―」
「俺はまだ何も―」
「いーや!どうせ僕にやらせようとしてるに決まってる。(略)『木下、お前のほうが体重が軽い』って言うんでしょう?」
「良く分かったな。…まあ、そういうわけだ。一つ、屋根に登ってくれるな?」
(略)彼らが叫び声を聴いたのは、ロープの端が屋上から消えてからのことだった。
「やっぱりー!僕の予感は正しかったあああああ…」
ドップラー効果で少しずつ低くなる木下の悲鳴を聞きながら、恭三は木下が落下中であることに気付いた。
(略)木下は両手、両手首の骨を折って、入院することになった。

「屋上からのボウガン発射が不可能ということは、屋上に通じるドアに鍵がかかっていたことからも証明された。また、河村美津子の体に、矢が水平に刺さっていたことからしても、中庭の三階の中空からボウガンの矢が発射されたとした考えられない。そんなことが現実としてありうるのだろうか…。」
「うん」
「恭三は、詳細を弟の慎二と妹のいちおに話聞かせる。すると、いちおは、この殺人のトリックがわかった、という。」
「へえ」
「そして、それを証明するために、自分たちを犯行現場の屋敷に連れて行ってくれ、警察も家族も交えた衆人をそろえたなかで実演してみせる!と、大見栄を切るのね」
「うん」
「それからの推理合戦の面白さ、その推理がさまざまな角度から否定されては、また新たな推理を弟が披歴し、犯人像も二転三転する…そして、最後に、あまりにも異常なトリックと犯人があかされる…と、こういう話なのね」
「ふーん。読んでみたくなったな」
「密室の謎、夜中に空中を浮遊するボウガンの謎…果たして速水兄妹は、二転三転する推理合戦の果てに、犯人の狡知にたけた犯罪計画に勝てるのか?最初にも言ったけど、本当に文章も無駄がなくて、簡潔でさらさらと読みやすくて、面白いから。まあ、文章にぺダントリックな効果を期待している向きには、あまりにさらっとしすぎている、と思われるかもしれないけどね。そういう趣味の人以外には、こちらのほうが、純粋に楽しいお話として、いい語り口じゃないかな、と思ってるよ」
「そうだね。やたらおどろおどろしい、息の詰まるような文体はあたしも好みじゃないからなあ」
「まあ、わざとそういう文体で、読者をけむにまく、という手法も推理小説の手法のひとつではあるんだけどね。この本は、そういうものとは無縁に、本当にシンプルな仕掛けだけで勝負しているから、誰にでもすすめられるよ。もちろん、ギャグもふんだんに入ってるしね」
「そうだね。なんか、ふざけすぎみたいな感じもあるけどね」
「このシリーズ、三冊出てるんだけど、長らく、電子書籍では、『8の殺人』だけしか出てなかったんだよね。それが、今年の8月になって、第三作の『メビウスの殺人』が加わったんだよ。こちらは、アガサ・クリスティの『ABC殺人事件』に似た構造を持つ、連続殺人が取り上げられてるね。おなじみの速水三兄妹が、殺人鬼を敵にまわして活躍する話なんだよ。かわいそうな木下刑事もまた登場してヒドイ目にあうのもお約束だよね」
「そうなんだ」
「のこりの『0の殺人』も、早く電子化してほしいな。作者は、この三作品以降、シリアスな推理ものに作風を変化させていくんだけど、また初期のこの作品みたいなドタバタも書いてほしいな。できればまた速水三兄妹でね。じゃあ、またね!」

「真剣師 小池重明」(団鬼六)

「今日は団鬼六の『真剣師 小池重明』を紹介するよ!」
「団鬼六…なんか、危ない小説ばっかり書いてる人じゃないの?」
「そうだね。あんまり読んでないけど…まあ、SM小説というか、ポルノ小説で有名な人だよね。まあ、そっちのほうは、好きものの人が読めばいいとして、この人、無類の将棋好きでもあり、知り合いから頼まれて、「将棋ジャーナル」という雑誌の後援人にもなってたんだよ」
「へえ。そんな事もやってたんだ」
「うん。この人も一生を遊び事に捧げつくした人だよね。今日紹介するこの本も、そんな付き合いのなかから、ふと知り合った、あまりにも異様な人物との交流の中から生まれてきたものなんだよ」
「ふーん」
「ところで、あたしは、将棋ってものを、やったこともないし、ルールも知らないんだけどね…なんで、こんな本読むことになったんだか、覚えてないんだけど、いったん読み始めると、あまりにも面白すぎて、止まらなくなっちゃったんだよね」
「へえ。あたしも将棋って、知らないな」
「将棋って、もちろん、日本を代表するボードゲームで、いまも盛んに競技が行われているんだけど、そこでプロとして一家をなしている人たちは、幼い頃からその天才性を発揮していて、エリートコースを進んでいる人たちが大半なのね。将棋連盟っていう機関があって、そこの奨励会で30歳になるまでにある程度の実績を積んで段位を獲得しないと、プロ棋士にはなれない仕組みになっているのよね」
「うん。羽生善治さんとか、最近だと、藤井聡太さんとか、有名だね」
「そして、まあ、勝負ごとの世界では、どこにでもあることなんだけど、裏の世界では、いわゆるやくざや好事家の賭けの対象になっている、闇の世界ってのがあるのよね」
「うん」
「そこで数十万、数百万という金額を賭けて、自分の雇った棋士同士を戦わせる…いわゆるウマつきの『賭け将棋』をとりおこなうわけよ。そこで戦う、表の世界には絶対に現われない、影の存在である棋士たちを、真剣師と呼ぶらしいのね」
「うん。それが、今回の本の、主人公なんだね」
「そう、将棋ジャーナルを後援していた、団鬼六の目の前に現れたその男、真剣師、小池重明は、一見、普通の、とりたてて見所のない、冴えない、貧乏で、将棋以外何にもとりえのない男だった…」

人妻との駆け落ち歴三回、最後は奪った女を他人に奪われて、(略)しかし、いずれの恋愛においても彼は純粋であった。(略)宿命的に逃亡と放浪の生活をくり返していた男であった。
(略)たしかに破滅型ではあったが、心の優しい男だった。良識ある人に意見されてよく泣いたところはあったが、(略)その如才のなさがなんとも憎めないところだった。
(略)現在では真剣師という異質な稼業は完全に消滅した。(略)最後の真剣師となった異端の強豪、小池重明の実録だけは一冊の本にまとめておきたい(略)。

(略)恩人の店の金庫から金を盗み出して逃亡した理由はたいていは女ができていっしょに逃げたとか、ギャンブルの借金で身動きがとれなくなって逃亡したとかであって、しかし、一ヵ月もすると小池は悄然として古沢氏の前に姿を現すのが常であった。
そちらでカモさえ見つけてくだされば使い込んだお金は返済しますと、(略)真剣将棋の相手さえ見つけてくれれば、と古沢氏に仕事を依頼しているのだ。

「この、人格的には完全に破綻し、いつも人の恩義に預かっては、恩人の金を持ち逃げするなどの裏切り行為を繰り返し、女と逃亡しては、その女に常に裏切られる…純粋性と破滅型のいりまじった、この異端な男の晩年に、団鬼六は立ち会うことになるのね。それで、作者は、この異端児の生い立ちから語っていくことになるのだけど、これが、異様に面白いんだよ」
「うん」
「たとえば、その出生からして、普通じゃないんだよね」

その半ば朽ち果てたようなおんぼろアパートには五世帯ほどが部屋の狭さと汚さに喘ぐようにして住んでいた。(略)亭主といえばチンピラやくざか、遊び人、女房はといえば例外なく夜の女だった。私の親爺の仕事は物もらいだった。(略)白い着物を着て白い箱を首にぶら下げ、戦闘帽をかぶり、アコーデオンを持って全国を渡り歩く傷痍軍人のコンビを組んでいた。家に帰って来ると(略)ザザッと、しわくちゃな紙幣と硬貨が流れ落ちて古新聞の上に山を作る。その瞬間が私はとても楽しかった。(略)稼ぎがあった日は、彼の両親は間借人たちを集めてバクチを開帳する。(小池重明『流浪記』)
(略)小池はこの奇妙な大人たちの仲間に加わって博打をうっている。

親父に将棋で何とか勝てるようになったのは高校一年のときだった。(略)私に勝てなくなると親父は将棋を指してくれなくなった。将棋が面白くてならなくなった私は生まれて初めて将棋雑誌というものを買った。(略)広告で見つけた将棋道場は(略)誰とやっても一番も勝つことは出来なかった。(略)私は負けると人一倍、口惜しがる性だから猛烈に将棋の勉強に取り組んだ。教科書代としてお袋にもらったお金で将棋の定石書を買うようになった。教科書は学校で友人のものを見せてもらえばいいと思った。(同)
それからは雨が降っても槍が降ってもで、小池の道場通いが始まった。(略)学校へ行くと(略)見せかけて将棋道場へ通うわけだ。
(略)名古屋市内で「中部日本学生選手権」という将棋大会が開催された。(略)小池は三段、四段の大学生を(略)片っ端から打ち破って見事に優勝した。

「そして、自信を持って、一つ上のランクの道場へ行くと、先生に、飛車、香落ちで、勝負してもらい、ボロ負けするのね。小池は、「まあ、ここじゃ四段は無理だな」といわれ、敗北感をかみしめる…」
「うん」
「学校はサボって、小遣いはすべて将棋の研究に使い、といっても、教科書どおりの打ち方には満足しない、生ものである道場での実戦の積み重ねしか信用しない、そんな生活を送っていたのね。ところが、道場の娘に惚れ、恋敵である色男と将棋対決を行うことになる…」
「ふーん」
「その時、相手は、負けたら、二万円払え、といってくる。小池には、そんな金はない」
「うん」
「それで、友人に相談すると、クラスの仲間からカンパであつめろ、と勧められ、友人と二人で金を工面するのね。そして、結果は、見事に相手を打ち破った…」
「うん」
「しかし、それがもとで、賭け麻雀をやったという理由で道場主から破門を言い渡され、ヤケになった小池は、不良と付き合い、夜の街に耽溺し、とうとう高校を中退せざるを得なくなる…」
「ふーん」
「そして、ようやく就職できたのは、売春宿だった。小池、十七歳のことだった」
「うん」
「小池のポン引きとしての腕は上々で、客を待たせてる間に将棋の相手をして稼ぐこともあったが、店の女に惚れて、ヤクザの亭主ともめて、辞めざるを得なくなる…」
「うん」
「それからは喫茶店を渡り歩くんだけど、決まって女にだまされ、金を持ち逃げされ、仕事を失っていく…」
「ふーん」
「名古屋市内の将棋倶楽部を回っては、小銭をかけて将棋の勝負を行い、とうとう、真剣師の経営する駅前将棋クラブに住み込みで働くが、小池の腕前では、本物の真剣師たちと打ち合うにはまだまだ実力不足だった…彼は、実戦のなかで修行を続ける…」
「うん」
「そのうち、負けはしたものの、大会で知り合った、関則可という強い棋士にたのみこんで、東京の彼のアパートに居候させてもらえることになったのね。そこで、彼の紹介で、上野将棋センターで手合い係として勤めることになる」

小池手合い係の評判は良かった。(略)将棋指導が懇切丁寧である。(略)最後には相手に勝たせるというサービスを発揮する(略)

「そして、人から持ち掛けられた試合で、プロ棋士との試合を持ちかけられる…小池に異存はなかった。プロ側も断るわけには行かない」
「うん」

序盤はたちまちプロ側が優勢になるが、中盤以降、徐々に形勢はアマ側に傾いて行った。(略)有田四段の指し手は乱れて受け一方にまわり、逆に小池の指し手は水を得た魚のように生き生きとして(略)華麗な寄せの技を見せた。
「負けました」と有田四段が駒を投げると観戦者からは、ほう、と溜息とも感動ともつかぬ声が洩れた。小池はすぐに駒を並べ直して、こうすればおそらく有田先生がお勝ちになったはずで―と、淡々として感想戦に入る。有田四段は茫然自失して小池の説明に耳を傾けているだけだった。

「将棋で食っていけるかもしれない…と思った小池は、奨励会の試験を受けることにした。それには、誰かと師弟関係を結ばねばならない。関のつてで、松田八段と話がついた。ところが…」
「うん」
「浮かれた小池は、道場の客として知り合ったキャバレーの経営主にさそわれ、そこの女に惚れ、道場の金庫に手をつけるようになってしまったのね」

もう、こうなると残された道は逃げることだけでした。松田先生にも関氏にも合わす顔がありません。(流浪記より)

「結局、東京を離れて、名古屋に逃げ帰り、父親のつてで葬儀屋に勤め、マジメに働くようになるのね。ところがまた、二年後、仕事で知り合った未亡人とくっつき、仕事を辞めて、不動産会社の運転手など、職を転々とし…」
「うん」
「子供の死産を契機に夫人とも疎遠になり、また、懸賞金のつく将棋大会へいどむのね」
「ふーん」
「新宿・歌舞伎町の天狗クラブに寝起きし、客相手に真剣師としての勝負を繰り返し、…もちろん、スポンサーがついて、大金が行き交う裏の世界での勝負ね…自分でも信じられないほどの勝ちをあげ、真剣師として小池の名は、界隈では誰一人として知らぬ者のない存在になっていったのよね」
「うんうん」
「ところが、強くなりすぎ、もはや真剣師として彼に勝負を挑んでくるものはいなくなっていた。困窮した小池は、ついに、アマ・プロ戦に出て、プロ四人と戦うことになる」

当時、アマはプロに勝てるはずはないと見られていた。
(略)小池の対プロ戦は四勝一敗の成績であった。(略)これは恐るべきアマの登場であった。
プロを恐怖に陥れた「新宿の殺し屋」、小池重明の名はプロ棋界にも知れ渡った。
(略)打ち上げの宴が開かれたが、(略)負けた一局を口惜しがり、あそこで、ああ、指せば俺勝っていたんだ、と(略)愚痴っていた。この男、プロに全勝する気だったのかと、一同、呆然とする。

「そして、小池はアマチュア将棋名人戦にいどむことになるのね。裏の世界の「無冠の帝王」だった小池にとって、初めての、タイトルを賭けた戦いがはじまる…それにもかかわらず、当の小池は、試合前夜まで、飲んだくれて、酒臭い息を吐きながら、フラフラの状態で対戦に向かうのね。対戦中に寝てしまうこともしばしばだった。…それでも、勝ってしまうのね」
「うん」
「このあたりで、小池に対戦をつぎつぎと挑んでくるエリート棋士たちを、赤子の手をひねるように打ち負かしていく描写は、読んでいて一種異様な高揚感をあたえてくれるね。しかし、実生活では、サラ金に追われ、困窮を極めていた。そして、いよいよ、プロになるため、大山康晴十五世名人との世紀の一戦となる…」
「大山名人…将棋を知らないあたしでも、名前だけはきいたことがあるね。」
「ところが、その大事な一戦の前夜、夜の街で酔って暴れた小池は、留置場にいれられてしまうのね。朝になりハッと目覚めた小池は、対戦会場へ走る。そして、酔いも冷めぬ頭で対局に臨む…」
「それで、どうなったの?」
「そこは、読んでの楽しみね」
「そんなあ」
「とにかく、いろいろあって、名だけは売れた小池だったけど、またしても事務所の金を持ち逃げする、寸借詐欺を行う…それが、週刊誌にもデカデカと掲載され、将棋界にいられなくなってしまう。ついには、『もうおれは蒸発するよ』と、ドヤ街で土方の仕事につく…。飯場で、二年間のつらい生活を送ったのちに、耐え切れなくなり、団鬼六の前にあらわれるのね」

小池の将棋はこれまでプロの指導を受けていた私の目から見れば型破りで、筋の悪さだけが目立つような妙な将棋だった。(略)こんな悪筋な将棋に負けるはずはないと追い込んでいくと終盤まぢかにきて一発、逆転のパンチを喰わされる。
(略)小池と奨励会三段とを戦わせてみたことがある。やっぱり奨励会員は小池には勝てなかった。「いや、先生に緩めていただいた。いや、僕はツイていただけなんです」と、小池は若い奨励員たちを先生と呼び、いつもながらのへりくだった言い方をして、負けて苦虫を噛んだ表情になっている奨励会員たちを慰めるのである。

「そして、小池は、団に身の上話を始める…苦しかった土工時代のこと、幼い娘に会いたいということ…」
「うん」
「そこで、金を与えて返すが、それも、小池は博打で散財してしまい、怒った団は、小池に将棋界の名人たちと勝負をさせ、負けたら出入り禁止との条件をつける…。いずれもエリート、俊英ぞろい…団は、この時の観戦記を、『果たし合い』という小説にして、雑誌に発表しているね。」

このとき、私は小池の終盤における華麗なばかりの寄せをまざまざと見せつけられたのである。寸分の狂いもなかった。

「しかし、そのときすでに、小池の体は、長年の酒浸りによる肝硬変で、死期を待つのみという、ボロボロな状態になっていた…。生活保護を受けつつ、病院に強制入院させられた彼は、嗚咽しながら団のところへ電話をかけて来る…。女にも人生にも失敗し零落した彼を待つのは、困窮死のみだった」
「ふーん。壮絶だねえ」
「かなりはしょって紹介したけど、もっと面白いエピソードが満載だから、ぜひ読んでみてよ。四十四歳という若さで世を去ったあまりにも型破りなこの天才の生涯を描いたこの作品は、たぶん団鬼六の書いた本のなかでも、一二を争う傑作なんじゃないかと思ってるよ。その時代その現場を駆け抜けた実在の人物にしかわからない、生の息使いや表現が、ズバ抜けているよね」
「そうだねえ」
「団鬼六は、この他に、この記事を書く参考にと思って読んだ『蛇のみちは』が、自伝だけど、面白かったよ。相場で破綻した実家を出てから職を転々とし、バーの経営、学校の先生、エロ映画の制作、SM小説家、と職を変えるごとに色んな人たちと交わっていくんだよ」
「へえ」」
「エロ映画製作の時代には、元、黒澤明の名プロデューサーだった本木荘三郎の落ちぶれた晩年に居合わせたり、たこ八郎や谷ナオミなんかと付き合ったり…。団鬼六には、あと、『外道の群れ』とかの、面白そうな本があるけど、これは、まだ、読んでないや。そのうち読もうとは思ってるけどね」
「あと、ポルノで有名だよね」
「そうだね。『花と蛇』がそのラインでの代表作らしいけど…まあ、ちょっと読んだかぎりでは、この人、女に幻想抱きすぎなんじゃないの?とは思ったけどね」
「そうなの?」
「うん。でも、エッセイなんかは、かなり面白いものがあったよ。『鬼六あぶらんだむ』とかね…。この間、メルカリで、『外道の群れ』のサイン本を買ったよ。識語つきだった」
「うん、なんて?」
「一期は夢よ、ただ狂え、とね。興味を抱いた人は、ぜひ、読んでみてね。じゃあ、またね!」

「友がみな我よりえらく見える日は」(上杉隆)

「今日は、上原隆の『友がみな我よりえらく見える日は』を紹介するよ!」
「ふーん。今日は、薄い本だね!これなら、すぐ読めそう」
「そうだね。読むのが早い人だと、一時間もあれば、読めちゃうかもね。でも、この薄さに反比例するように、中身は濃い、深い印象を残す面白本なんだよ!」
「この上原隆って人は、作家なの?」
「まあ作家っていうか、ノンフィクション・ライターっていうか…。著書の数も少ないし、あまり有名じゃないかもしれないけど、本当にいい文章を書く人なんだよ」
「へえ。で、この本は何?短編集なの?」
「まあ、今を生きる人々の生活のひとこまを、さりげない筆致でたどっていったノンフィクション・ノベルの短編集、ってところかな」
「ふーん。ノンフィクションって、沢木耕太郎みたいなやつなの?」
「似てるところもあるけど、ちょっと違うかな。どっちかというと、以前紹介した、木山捷平に近いかもしれない」
「うん」
「本当に、どこにでもあるような、色んな人々の人生の一端を綴っているんだよね。みんな、どこにでもいるような、もしかしたら明日の自分かもしれないような身近な存在として、書かれているんだよ」
「ふーん」
「この本には、14編の短編が収録されているんだけど、たとえば、そのうちのひとつ『容貌』を読むと、こんな感じではじまるのね」

喫茶店で初めて会った時に、木村信子(四六歳)はこういった。
「こんなふうに男の人と二人で話をするの一五年ぶり。緊張してます」
木村は男性と恋愛をしたことがない。(略)自分の外見が美しくないから、男性の関心が向かないのだと彼女は思っている。
(略)彼女の家から大崎駅へ向かう道筋に、南雲医院という有名な美容整形外科の病院がある。
十八歳の時、彼女は母親と駅に向かって歩いていた。
「あんた、お金だしてあげるから、南雲さんへいく?」母親がいった。
木村は母を見た。。母の表情から冗談でいっているのでがないことがわかった。そのとき、自分がどう答えたかは覚えていない。ただ、
〈お母さんもやっぱり、私がブスだからかわいそうだと思ってたんだ〉
と考えたことだけはハッキリと記憶している。

「うう、なんか、切ない話だね」
「この本に出てくる人達は、決して、特異な事件をおこしたとか、性格が変だとかいうんじゃないんだよね。日常の、へんてつもない人ごみのなかに、ふといても不思議でもなんでもない人たちなんだよ」

八畳一間に風呂と台所がついているワンルームマンション。三一歳の時に買い、現在もローンを払い続けている。(略)
床に銀色の熱帯魚の形をした風船が二つ横たわっている。たぶん、二、三日前まで、封緯線はプカプカ空中に浮かんでいて、部屋の中を水槽のような感じにしていたのに違いない。

恋愛経験のない木村にも、片想いの思い出ならある。
十九歳の時に、ひとりでハワイ旅行のツアーに参加した。そこで年下の男性と出会った。(略)ハンサムだし、話も楽しかった。〈なんて素敵な人なんだろう〉と思った。しかし、旅行から帰ってからは連絡もないし、会う機会もなかった。そこで、彼女は年に一回海外旅行をしておみやげを買い、それを口実に彼に連絡をとった。
年に一度会う。それが八年間続いた。(略)
連絡をしなくなってから一年くらいたった頃、彼のほうから電話があった。
「会いたい」と彼はいった。
「私、すっとんで行ったんです。(略)『実は…』っていわれたとたんに、『ううん、いわなくてもわかってる』っていっちゃったの。私はね『実はぼくも好きだ』っていうんだろうと思ったわけ。(略)」
ところが、彼は「お金を貸してほしい」といったのだ。
「(略)彼は私が絶対断らないと思ってたんじゃないですか。自分のこと好きだから。『これだけしかないけど』って渡した」
「その時にね、喫茶店に入ってミルクティを頼んだんですよ。(略)私あせっちゃって、(略)ポットに粉ミルクが入ってたの。で、ミルクだと思って入れちゃったら、それがチーズだったんですよ。(略)チーズだから溶けないわけ、浮いてんの全部、(略)彼が見てるし、飲んじゃった。飲み込んじゃった。気持ち悪くて気持ち悪くて。(略)いま、思ってもすっごく恥ずかしい」

「なんか、聞いていられないような話だね」
「そんな彼女は、ある決断をするのよね」

四五歳になった時に、木村は自分のヌード写真を撮ることを思いついた。
「自分の体を誰にも見せたことないなって思ったんです」
友だちに自分の部屋を撮りたいのでといってカメラマンを紹介してもらった。
(略)「いいよ」カメラマンはそばにある醬油差しを取ってくれるような調子で答えた。
(略)一週刊後、写真が出来上がってきた。
(略)〈美しい〉と木村は思った。
(略)それ以後、仕事場などで、写真のことを思い出すと、ちょっと幸せな気分になった。

午前0時。銭湯から帰ってくると、ベッドに入って本を読む。木村はこの時間が一番楽しいという。本を読んでいて眠くなったら、電気を消す。
明日も、たぶんあさっても同じ暮らしが続く。
新宿の街の灯で窓がうっすらと明るい。(略)床に横たわった風船の熱帯魚が青白く輝いている。

「ね、なんか、相当に深い短編小説を読んだような味わいがあるでしょ」
「そうねえ。切ないとただ単純にいえるようなもんでもないような気がするな」
「この本の解説で、村上龍が、この、チーズの粉を紅茶に入れてしまうところを絶賛してて、自分の小説に使わせてほしいと、作者に申し出たらしいね」
「ふうん」
「つまりそれだけ、事実の重みってのがあるわけよね。そして、それを、実にうまくすくいとってくれるのが、この本の作者なわけよ。その腕はもう、神業にちかいものがあるよね」
「へえ。それで、この本の他の話も、こんな感じなの?」
「そうだね。たとえば、いまの話のすぐあとにくる『ホームレス』って話は、こんな感じなのね。部下をかばって上司と衝突し、仕事も妻も失って、アパートの家賃は払えず、いよいよ、街をさまようことになった男が…」

彼の肩をたたく人がいた。以前、横浜でいっしょに働いたことのある男だった。
「メシ食ってないんだ」その男が片山にいった。
「どこで寝てる?」片山が聞いた。
「宮下公園のハコさ」
「あとひとりぐらいのスペースあるか?」
(略)「はじめの一か月は淋しかったね。四八の時だよ。ホームレスになって、ワーッこんなのが続くのかなー、ヤダなーって思ったけど、二か月目になったら、ああ、こんなもんかなって、慣れるんだよね」

「彼のなりわいは、駅構内のゴミ箱に捨てられた雑誌拾い。まるで釣り師が釣り上げた魚を吟味するように、慣れた手つきで雑誌をとりあげ、つぎつぎと電車を乗り継ぎ、獲物を追っていく…」

「路上生活者になると、最低のところまで落ちたって感じがしてみじめにならない?」
「ならない。何かあってガックリくると何もやりたくなくなる人間って多いけど、俺はそれを逆に考えるんだよ。何でもできるようになったんだって。何でも楽しくやるんだよ。ホームレスになって三年目になるけど、今は毎日目標があって楽しいよ。(略)」
「目標を持って、自分が楽しければいいと思っている」片山がいう。
「そういう考えはいつ頃からもってるの?」私が聞いた。
「ホームレスになってからだね」
「その前は違った?」
「自分より他人を助けなくちゃいけないと思ってた。いまは、他人よりも、まず自分を助ける」
後輩を思って上司を殴り、退職した。アパートにやってくる友だちを断れなくて住まいを失った。人のよさが彼を路上生活者にしたのかもしれない。いま、片山は自分を大切にしようと考えはじめている。

「また、妻と別れ、単身で幼い娘を育てながら暮らしている中年男性の話では…」

「じゃ、お父さんとお母さん別れるから、理恵子どっちに来る?」って聞いた。理恵子は黙って、オレのほう指さしたんだ。
(略)理恵子には、かわいそうな選択をさせたな、と思って。で、そのあと、しばらくね、二、三ヵ月くらい、ふとんの中に入ってから、「お父さん、理恵子のこと置いてどこにもいかないよね」っていうんだ。「行かないよ、どこにも行かないから大丈夫だよ」っていうと、やっと寝る。

「こう、日常のはしばしにある、切ない瞬間ってのを、本当に、そのままの形で、浮き上がらせてくれるのね」
「そうだね」
「この本は、もともとは学陽書房っていう小さな出版社から出されたんだよね。それが、ちょっと評判になったんで、幻冬舎文庫にはいったわけ。でも、その際、削除された一編があるんだよね。いま、手元に実物がないんで、詳しくは確かめられないんだけど、売れなくなった少女小説家を扱ったものじゃなかったかな。作家といえば、芥川賞をとった東峰夫という作家が、売れなくなって、路上生活者に落ちぶれるまでを書いた『芥川賞作家』という章もあるね。これも、凄く面白いよ。」
「そうなんだ」
「しかもすごいのは、文章に凝るとか、妙にカッコつけるとか、そんな小細工まったくなしに、平明で事実のみを立て並べていく本当に読みやすい文章で、それも、ありふれた市井の人々を対象に、これだけ深いものが書けるってとこだよね。そりゃ村上龍も感心するわっていう…」
「うん」
「作者は、この本のあとも、どこにでもいる人々の、小さな『こじらせ』を、暖かく鋭い手つきですくい取っていく掌編集を、出し続けているんだよね。同じく幻冬舎から出てる『喜びは悲しみのあとに』、『雨にぬれても』『こころ傷んでたえがたき日に』などね。冒頭に引用した『容貌』の女性のその後も描かれているし、作者本人の孤独な生活をつづったものもあり、で、しみじみと、ちびちびと読んでいくのに最適な本なんだよ。でも、やっぱり、最高にのめりこんで一気に読んだのは、この、第一弾である、『友がみな我よりえらく見える日は』かな」
「ふうん」
「でも何にせよ、とにかく寡作で著作も少ないもんだから、今はいやおうもなく埋もれてしまっているのが現状だと思うんだよね。もしこの記事を読んで興味を抱いた人は、電子書籍でこの人の著作が数点出てるから、ぜひ手にとってほしいな。じゃあ、またね!」

「皇帝のかぎ煙草入れ」(J・ディスクン・カー)

「今日は、ジョン・ディクスン・カーの『皇帝のかぎ煙草入れ』を紹介するよ!」
「ふーん?何だか、相当古そうな本だね」
「まあね、カーの探偵小説は、戦前から日本に紹介もされていて、横溝正史なんかも、大いに影響されてたそうだよ。今も推理小説好きの間では、熱心なファンがいて、ほぼ全作品が翻訳されているんだよ!まあ、あたしは、あんまり読んでいないんだけどね…」
「あれ?そうなの」
「うん。そのわけは後でいうつもりだけど、あたしにとってのカーは、本格推理作家というよりも、サスペンス・メロドラマ作家として、記憶されているんだよね。で、その、あたしの読んだカーの作品の中でも、ダントツに面白かったのが、この『皇帝のかぎ煙草入れ』なんだよね」
「へえ」
「ところがこの作品…創元推理文庫でだったかな…冒頭がすごくとっつきにくくて、ちょっと読んでは止め、また内容を忘れた頃にちょっと読んではまた中断し…で、長い間ほったらかしにしていたのね。それで」
「うん」
「最後の手段として、本をカッターで一ページずつ切り離して、読み始めたの。まあ、今でいう電子書籍みたいな感覚でね。それで、読んでいったんだけど、はじめから四分の一くらいまできたところで、ページを切り裂いてる暇がないくらい面白くなっちゃって、一気に最後まで読んでしまった」
「へえ。途中から面白くなってきたってこと?」
「そうだね。昔は読むスピードものろかったし、冒頭あたりの、背景説明のだるさに耐えきれなかったんだと思うけど、それでも、後半にいたってからの、ジェットコースター並の展開ハラハラさには、一気に飲み込まれてしまったんだよね。いかに面白いか、これから説明するね」
「うん」
「お話はね、こんな感じで始まるんだよ。二十八歳の女主人公・イヴは、不実な夫、ネッド・アトウッドと離婚して、鬱々とした日々をイギリスの別荘地で送っていた。ネッドは、離婚が成立したあとでも、しつこくイヴに自信満々に言い寄って来る卑劣漢でもあった。別荘地で一人過ごすイヴの前に、さわやかな青年、トビーが現れる…」

素朴な、いくぶんぎごちない青年だが、イヴが久しくお目にかかったことのない快活な表情をしていた。(略)
その日の午後、はやくもトビー・ローズは、すばらしい女性に出会ったことを家族に話していた。卑劣な男と結婚していたが、いまでは、誰もが賞讃せずにはいられない生き方で、立派に耐え抜いていると。
(略)ローズ一家は素直に彼女を迎えいれたのだ。
(略)イヴのとまどった気持ちは熱い感謝の念に変った。氷のような神経もやわらぎ、いつのまにか仕合せな気持を抱きはじめている時間がこわいほどだった。

「トビーたちの一家は、イヴの住んでいる家のすぐ向かいにあったのね。夜になると、その二階で、トビー一家の父親であるモーリス卿が、テーブルの上にかがむようにして、趣味の骨董品をうっとりとした表情で眺めているのを、イヴの寝室からその灯りを通してはっきりと見る事が出来た」
「うん」
「ところが、運命の夜、合い鍵を持っていた、前夫のネッドが、イヴの寝室に乱入してくるのね」
「ふーん」
「イヴはまだ自分に未練を持っていると信じて疑わないネッドは、はげしくイヴに言い寄るが、厳しい態度で拒絶されてしまう。」

「ほんとうに、あのローズとかいう男と結婚する気か?と、彼は吐き出すようにいった。
「そうよ」(略)「そばによらないで!」

「イヴは、彼を追い払わなければならないと思うと同時に、今日この男が寝室に入り込んできたことを、誰にも知られてはならない、どんな無実の罪をなすりつけられるかわかったものじゃない―という恐れもあった。ところが、よりによってそんな時、隣家の二階である惨劇が起きていた…ネッドが入ってきたときには、テーブルにかがむようにして、骨董品を眺めていたはずのモーリス卿がー」

彼の目は、五十フィートと離れていないモーリス卿の書斎の明るい窓に、真直ぐそそがれていた。(略)しかし、書斎の中は、わずか数分前にネッドがのぞいたときとは様子が変っていた。
(略)二人が見ると、誰かがそっと、そのドアをしめるところだった。
誰かが書斎からぬけだすようにドアがしまったのだ。イヴはやや遅れて窓辺によってきたので、その顔を見ることができず、あとあとまで、それにつきまとわれることになった。だが、ネッドは見ていた。
しまっていくドアのかげから、手がすっと出た。この距離からだと、小さな手に見え、茶色がかった手袋をしていた。
(略)モーリス卿の頭はこちらからは見えないが、なにかの凶器で、何回もはげしくなぐられていたのだ。(略)動かなくなった頭は、べっとりと帽子のように血でおおわれていた。

「イヴは、一刻も早くネッドを帰らせなければならないと焦る。怖れていたのは、警察を通じて、この夜中に前夫と一緒にいたことをみなに知られてしまうのではないか、そうなれば、どんな疑いを持たれるかもわからない、という事だった。」
「うん」
「彼は、殺人犯の顔を見ている唯一の人間だった。しかし、この窓から見ていた、この部屋にいたということを証言されてはまずいことになる」
「うん」
「そこで、彼女は、あらぬ失敗をしてしまう。あわてたあまり、二階の階段の上で、彼の体を力づくで押してしまった。ネッドは、階段から転げ落ち、頭を強く打った。血が流れる。」
「ふーん」
「彼はふらふらしてはいたが、いちおう歩けたので、彼女のいうがままにその場を去る。彼女の衣服は、彼が怪我をしたときに流れた鼻血がべっとりとついていた。外へ出た彼女は屋内に入ろうとするが、鍵がかかっている!そこへ、警官がやってきた…」
「うん」
「彼女は、殺人の容疑を着せられてしまうのね」
「ふ-ん」
「もちろん、現代の目から見れば、付着した血のDNAを調べれば、無関係ということはわかるんだけど、当時は、血液型の違いくらいしか、血の来歴を証明するものはなかった。そして、殺されたモーリス卿の血液型と、ネッドの血液型は一致していた…」
「うん」
「そして、悪いことに、彼女はその時パジャマの中に、自分の家の合い鍵を持っていた―前夫から無理やり取り上げていたのね―その鍵は、その辺り四軒の家に共通していたもので、モーリス卿の家の鍵としても使えるものであった」
「へえ、偶然ってかさなるものね」
「そして、決定的だったのが、彼女の部屋から、モーリス卿が殺されたときに、同時に打ち壊されていた骨董品…ナポレオン皇帝の愛用したかぎ煙草入れの破片の一片が見つかったということね。」
「うん?なんで、そんなことがありえるの?」
「そこがまた、のちのち明かされてくる大きな謎なのよね。ところで、彼女の身の潔白を証明してくれるものは、いよいよ前夫のネッドをおいては他にいなくなった。ところが―」

「アトウッド氏は、(略)脳震盪を起こして寝込んでいます。(略)」
これまで彼女に向けられてきた非難は、他愛もない、皮肉めいた冗談にすぎなかったろうと、博士は思った。ところが、いま突然、それはまるで違ったものに転じてしまった。すべての行きつく先が、彼女に見えてきたのだ。(略)
「脳震盪…?」
(略)夜中の一時半に、アトウッドしは(略)ホテルのロビーに入ってきて、自室へ上がる途中、エレベーターのなかで倒れたのです」(略)
「おわかりですね。アトウッドしはいま、何も証言できないでしょう。回復もむずかしいといわれております」

「さあ、ここからが、彼女の孤独な戦いになってくるのよね。誰も信じてくれない、あの純粋だったトビーさえも…。果たしてあの時、殺人を犯してドアを開けて出て行った人物は何者だったのか?茶色い手袋の謎は?手袋の持ち主であるトビーの伯父や、怪しいメイドなど、疑わしい人物が次々と現れる中、彼女の孤独な闘いは報われるのか?ついに警察に逮捕されてしまった彼女の冤罪を疑っているのは、警察署長の友人の精神分析医、キンロス博士だけだった…」
「うん」
「だいたいのアウトラインは、こんな感じね。出だしとして、申し分ないでしょ?」
「うん。どうなるのか、先が気になるね!」
「これから先は、事件の展開のダイナミックさ、論理のアクロバットの華麗さ、あまりにも意外なトリックの見事さ、全てが凝縮された一大巨編になるんだよ!何よりも、事件に翻弄され、つくされる一人の女性の運命に、ハラハラせずにはいられないよね。推理小説としての見事さもありながら、あたしが最も心にのこったのは、この無限地獄ともいえる状況のなかを、渦に巻き込まれた木の葉のように翻弄されながらも、懸命に戦っていこうとする女主人公・イヴの立ち姿だったね」
「ふーん」
「この小説について、江戸川乱歩はこう言ってるね」

(略)非常に感心した。このトリックは(略)不可能興味の最もズバ抜けたものである。不可能中の不可能が可能にされている。又ナポレオン皇帝の嗅ぎ煙草入れが極めて巧みな小道具として使われているが、この品についての一つの盲点が犯罪発覚の端緒となるあたり、実に心憎き妙技である。(江戸川乱歩『幻影城』より)

「とにかく、あまりにも鮮やかなアクロバット的なトリックと、ハーレクインなみに感情を揺り動かされる女性の運命やいかに、というメロドラマ調の冒険的な興味とで埋め尽くされた、他に代えがたい一品だったね。すべてが明らかになったのちの、彼女にとって「余りに長い旅」だった、その事件の全貌をふりかえる、その感慨にも、うちふるえるような感動があったし」
「ふーん」
「とにかく、これ以上詳しいことを言えないのがもどかしいんだけど!ぜひ読んでみて欲しいね」
「うん。ところで、お姉ちゃん自身は、あまりカーの作品を読んでいないって言ってたよね?」
「そうね。実は昔、『妖女の隠れ家』『連続殺人事件』『盲目の理髪師』と読んで来たんだけど、古色蒼然としてて、あまり楽しめなかったのよね。そんな感じで、カーの作品からは、遠ざかってしまって…でも、カーの作品って、妙にコミカルなところもあって、そこは嫌いじゃなかったな。『連続殺人事件』の出だしなんか、古き良き時代のモノクロのハリウッド・ロマンスコメディみたいな色合いもあったしね。そういうドラマチックな盛り上げ方が、推理と一番マッチングして、最大の効果を上げたのが、今回紹介した『皇帝のかぎ煙草入れ』だったんじゃないかな、と思ってる。だから、カーと言えば、一級のドラマチックなミステリーを書ける作家だったな、という印象ね」
「うん」
「実は、カーの作品のなかで、傑作とされている小説で、まだ読んでいないのが数点あるのよね。この記事を書くにあたって、確認の意味で『火刑法廷』を読んでみたんだけど…」
「うん」
「トリックに次ぐトリックの物凄い展開は多いに楽しめたんだけど、やっぱりちょっと、真相が、過去の古い因縁話に通じるところは、古色蒼然という印象をうけたね。やっぱり、今のところの一番は、この『皇帝のかぎ煙草入れ』かな」
「ふーん」
「『火刑法廷』については、後日、トピック以外の部分で触れることがあるかも知れないね。これも、徹夜本の傑作であったことには、間違いないんだから。カーについては、マニアが書いた解説本がいっぱいあるから、そこらへんをとっかかりにして読み進めていくのがいいかもしれないね。あたしも、うっかりした事を言おうものなら、マニアの人から批難の小石がいつ飛んで来るかもわからないし、この辺にしとくね。じゃあ、またね!」

「老残」(宮地嘉六)

「今日は、宮地嘉六の『老残』を取り上げるよ!」
「宮地嘉六…。全然聞かない名前だね?」
「そう、もう完全にといっていいくらい、忘れられた作家だからね…あたしも、知ったのは、つげ義春を通じてだった。数年前くらいの『芸術新潮』のインタビューで、つげ義春の言葉として、『宮地嘉六も好きで読みましたが、知らないでしょう?』とあったので、気になって読んで見たのよね。そしたら、これが、凄かった」
「へえ、どんなふうに?」
「もう、文章の密度からして、違うのよね。自らの困窮生活を吐露する…まあ、いってみれば、私小説なんだけど、この人の手にかかると、その窮乏生活が、一種、逆ファンタジーの世界のような、…それも、ただふわふわして、つかみどころのないファンタジーじゃなくて、現実という重しを常に足に縛り付けられていながら、どこか豊饒な幻想の世界を彷徨しているような独自の世界を作り上げられていたのね」
「へえ」
「この『老残』って本は、昭和30年に中央公論社から発行されていて、まあ、遺作なんだけど、こんなふうに始まるのよね」

終戦と共に東京の空が急に平穏に帰ったときは誰もがホッとしたであろう。(略)進駐軍が(略)トラックで米大使館の周辺に乗りつけるやトラックから一斉に飛び降りた兵隊らが、いきなり通路脇にじゃあじゃあと放尿をやらかすその光景にも何かしら一種のもの悲しさを覚えさせられたものである。(略)それからの二三年間の深刻な困苦の連続をかえり見るとよくも耐えてこられた…(略)雑草も食い、カボチャが大きくなるのを待ちきれずにボールほどのやつをもぎとって喰ったこともある。(略)今思い出してもふき出したくなるが、或る日のたそがれどき、人通りの絶えた溜池通りを歩いていると、サツマイモが一つころがっている。(略)多分、自転車のうしろの荷台からこぼれ落ちたものであろう。(略)それからというもの、日の暮れがたに町を歩いていると馬糞がサツマに見えて、ついサンダルのさきで軽く小あたりに蹴ってみたくなったものだ。

「この忘れられた老作家は、日本文学報国会の事務員として戦時中細々と暮らしていたのが、70歳近くになって、空襲に焼け出されて、その跡地である麹町区永田町のバラック小屋に住んで、かつかつの日々を送っていたのね」

終戦直後は見渡す限りあの一円は焼野原で、ところどころにポツンと焼け残りの土蔵が(略)半壊の姿を曝してい、赤錆びたトタン張りの小舎が点在して色のさめた洗濯物やボロ蒲団など乾かしてあるのが哀れに目立つ戦災風景だった。日が暮れても街灯は完全につかず、夕闇の中をジープがイタチのようにすばしこく掠めて過ぎる外は人影もまれだった。たまにお葬式の万燈のように電車がのろのろ通る姿のわびしさ―

「へえ、いまの国会議事堂のあたり?そんな光景だったんだねえ」
「そんな毎日のなか、通りかかったある婦人から、『ここらへんにハンコ屋さんはありませんでしょうか』と、声をかけられるのね。引揚者で、区役所で更生資金を借りるのに必要なのだという。主人公は、もともと手先が器用で、ミトメ印のハンコくらいなら、手作りで作れる技術をもっていた。まともなハンコ屋なら、一日か二日かかるだろうが、簡単なハンコなら、一時間もあれば彫れる自信があった」

「あの、ミトメ印くらいなら私が今すぐにでも刻ってあげてもよろしいんですが…上手ではありませんがお間に合う程度ならできます」
「まあ、有りがとうございます。あなたさま、あのハンコ屋さんでいらっしゃいますの」
「いえいえ僕はハンコ屋じゃありませんが、ちょっとぐらいのことはやれるんです」(略)
引揚者なら定めし、われわれ罹災者以上にこまっている人かも知れない。さしづめ、とりつくしまは更生資金以外にはあるまい。(略)
刻るのは造作なかった。もともとこうした私の余技は少年時代のイタズラ遊びがその下地なのである。(略)
「まあ、お上手ですこと。ありがとうございました。こんなに早く刻って頂いて助かりました」(略)
「あの、おいくらさし上げたらよろしいでしょうか」
「いえいえ、それはあなたに進呈しましょう。僕はハンコ屋じゃないんです(略)」
彼女は拾円札を三枚私に押しつけるようにさし出し、(略)どうしても受けてくれというのである。
「いや、、それには及びません」
と私は一応は辞退したが、強引にそれをしりぞけ得る現在の境遇でもなかったので、遂に受けることにした。
その婦人のミトメ印を刻ってやったことから、私はふっと思いついて自分で忘れていた余技に気がつき「おれは現金稼ぎにハンコ屋になって見ようか知ら…」とそう思ったのである。
(略)いっそのこと路傍のハンコ屋になって(略)もとの海軍省の西側の柵沿いの狭い通りを選ぶことにした。(略)進駐軍将兵がひっきりなしに往来している場所なのである。

「へえ」
「そこで、靴磨き、易者といった路傍の商売人に並んで、米兵あいての『スタンプショップ』をはじめるわけね。最初は皆無だった客も、あるとき、一人の米兵に注文を受けたころから、噂が噂を呼び、店は大好況となった」
「ふーん」
「でも、そういう日々は長くは続かなかった。近くに、ゴム印のハンコ屋が出来たのね。主人公のつくるハンコは蝋成で、ゴムでは元がとれなかった。将来はハンコ屋の店でも持っておだやかな日々を暮らしてみたいという主人公の夢は潰え去った…」
「なかなかハードな日々だねえ」
「終戦直後は、こういう人が多かったのね。で、主人公は、河岸を変えて、家庭裁判所の脇で、今度は日本人相手の商売を始める。最初に訪れた客は、顔見知りのルンペンだった。」

虎ノ門の焼けビルの跡などに古いベニヤ板を三角に立て合わせて、その鶏小舎然たる裡に寝泊まりしているその男である。雨の日など、やっとそのぶざまな小舎の裡にカラダを縮こめて寝ているその男。よく国民酒場でも見かけるその男だった。(略)
戦争中は兵隊にひき出されて南方へ行き、終戦になって帰還して見ると親兄弟も女房子も行方が判らず(略)現在のような境遇に自然に陥りこんだというのである。(略)
「失礼だが、拾い屋で一日にどれくらいの稼ぎになる」(略)
月曜日、素曜日は進駐軍の教練がある日で、(略)隊長の姿が見えると兵士らは手にしているシガレットを矢庭に放り棄てて整列する。その棄てられた巻煙草をモク屋たちは待ちかまえて飛びついて拾う。(略)米兵の通った跡にはスミレが咲く、とは、彼等拾い屋のよくいうことだった。(彼等は女兵士達のすてた口紅のついた吸いさしの巻煙草をスミレと称してよろこぶ)
「いよいよ、あしたから、リンタク屋になろうと思いますね」と彼はいう。「それには車の賃貸契約書にハンコおさんなりまへんよって(略)」
翌日、二人乗りのリンタクに大男の米兵を二人乗せて霞ケ関の大通りをエッサラホッサラとペダルを踏んで走って行く男、それが彼だった。

「そんな中、彼はちょっとした出会いにでくわすのね。血まみれの喧嘩の多い殺伐とした国民酒場を避けて、ある時赤坂の、こっそりカストリを飲ませてくれるという喫茶店を訪れた主人公は、意外な人と出会う。」

「あれ、まあ、おめずらしい…」(略)よく見ると、このおかみ、いつぞや山王下の焼跡の通りで、すれあったときハンコ屋の所材を私に訊ねた彼女だったのである。(略)
「まあ、あのときは有りがとうございました。おかげさまで、あれから後、とうとうこんなお店をはじめたんですのよ。よくいらして下さいました…」

「ふーん。奇遇ねえ」
「その翌日、別れた亭主とのもめごとを何とかしたいという彼女の要請を受け入れて、かつて筆記記者として裁判所に通い詰めたこともある主人公は、彼女を家庭裁判所にまで案内したりするのね。まあ、そんなこんないろいろな人生があって…大晦日の晩、主人公はひとりバラック小屋で、自分の人生を振り返ってみるのよね」

(略)冬の寒夜に二児を抱いて寝た夜ごとの男やもめの自分の過去の姿が咽びたくなるほど哀れに思い浮ぶ…子らの唄、思い出深し四度の冬…。
(略)『死』よ、いつでもおいでなされて下さい…(略)それでは、告別式の弔辞を一つ…(略)
「君は天才ではなかったが、よく六十五歳の長きを生きた。君は貧乏というものにどこまで耐え得られるかを身を以て実験した。また孤立と孤独でどこまで生きてゆけるかを実験した人でもあった。(略)君の一生はまことに恵まれざる一生ではあったが、今や二児は成人せり。君の使命は果たされたりというべきか。以て瞑すべし。(略)」
(略)ひとりでひょうたくれながらこの大晦日の夜を、ぐびりぐびりと独酌でのみ明かしたが、実をいうと悔恨の生涯に慟哭したい気持ちをまぎらすためであった…。

「ね、しみじみしちゃうよね。こういう世界、好きだなあ」
「そうね」
「この話には続編もあってね。『八つ手の蔭』というんだけど、同じく戦災で焼け出された、小さい女の子を連れた乞食と公園の水飲み場でちょっと挨拶を交わすところから始まるのね」

(略)七八歳ぐらいの女の子をつれたルンペン風の四十男で、相当に窶れたその姿は私の心をいたましむるには十分だった。が、こちらも紙一重の同一線上を辿っている羅災民、他人を憐れむ資格などあろうわけはない。
(略)その後、しばらく逢わなかったが、或る日、赤坂福吉町の通りを歩いてゆく父子の姿を見た。(略)彼のあとからは例の女の子が垢だらけの顔をして下駄をひきずりながら、おくれがちについて歩いていくのである。父親が大股ときてるから女の子には骨がおれそうだ。それに相変わらず父親は、あとをふり向いてはがみがみ叱りつけるのである。
(略)女の子が可哀想だが、そのいたいたしい子を叱る癖がついてしまっている父親の気持ちも私にはよめるようで気の毒だった。(略)女房に逃げられた男だったら、そして今は幼い女の子を男手一つでめんどう見ている、という苦難の途上にある男だとしたら、さだめし割り切れないものがあろう。(略)仕事にはありつけず、住む家もなく、始終はらぺこで町を歩いているのだとしたら(略)彼を一個の病的な人間にしてしまうのはわかりきったことである。

「この主人公、つまり宮地嘉六自身も、妻に逃げられて、男手ひとつで、幼い男女の兄妹を育てた経験があったのよね」

オモチャの汽車や電車を買ってきてあてがえば、終日、冬の陽の射しこむ縁側で、「ガッタンゴーガッタンゴー…」とひとりごとをいいながらおとなしく遊ぶ子だったのでたすかった。(略)お人形を抱えて子守歌を覚束なげに唄っていたおカッパの女の子(略)座布団をまるめて赤ちゃん代りにおぶわせてやると、歌うことのすきだった彼女はよく(略)まわらぬ舌でこまちゃくれて唄うのだった。
(略)幼い頃の子らをムキになって叱った思い出くらい私の心を責めるものはないのだった。
「あたし、夕暮れどきに小雪がチラチラ降ると悲しくなるの。お母さんが、そっと裏口からあいに来て、またそっと帰っていったときのことを思い出すわ…」
私の知らない間にそんなこともあったらしい。

「それから、日を置いては、このルンペンの親子が歩いている姿をみかけるのね。ある秋もせまってきた日、女の子が、ガラスのかけらを踏んだとかで足をひきずって歩いていた時は、灰をまぜた湯の中にひたすと治りがはやいという療法を教えてやる…。それから二三日すぎて、日比谷公園の木陰にいた靴磨きの老女のわきに、その女の子がひとりで遊んでいた…」

「旦那のおっしゃった通りにしたらこの子の足のうずきがすぐなおりましたのよ」
「それはよかった。この女の子はおばさんの子なのかい」
「あら、とんでもない。今日はこの子の親じさんが小松川まで行ってくるといってね、私にこの子を預けて出かけましたの」
(略)紙ぎれに何か鉛筆で書いたりして遊んでいるルンペンの女の子を見やると、彼女は私にはにかむような表情で小さな顔を傾けて一種のシナをした。
「何を書いているんだい」
「おじさんにみせておやりよ。―この子は綴り方が上手でござんすよ」と靴みがきはいった。
見ると、おぼつかない仮名字で書いている。
「スズメ、ツクツクホーシ、イヌコロ、アマガエル、シロウサギノコ…」
「なあにこれ…」
「あたいの可愛い子供」そういってにやりと笑った。

「この子の父親は、頑固者で、空き缶や空き瓶拾いは断固としてせず、拾うクセがつくとドロボーの一歩手前だ、と、言ってきかないのだという」

一切路上に落ちてる物は拾わない、とのたて前で生きている潔癖な一人のルンペン、今どき私はめずらしいと思った。

「そして、主人公は、彼の子供たち…いまは成人して、羅災者寮にいる二人の子に会いに行く。…主人公はいまも彼等の母親とは気まずい関係で、母親が彼らを訪ねて行く日を避けて面会していたのだった。そんなこんなで、月日の経ったある日…」

そうした子らを久しぶりに神宮寮に訪れると、いきなり「それはそうとね、いつもお父さんがはなしたルンペン親子は父子心中したらしいよ。こないだ新聞に出ていたのがどうもそうらしい」と倅はそういって一週間も前の新聞をとり出して私にひろげて見せた。
(略)果たしてあの父子であるかどうかをたしかめるには日比谷公園北口の靴みがきの老女にきくのが早道だったので、私はそれから幾日かのあと、(略)北口からはいってゆくと、かねてそこにいる筈の場所に靴みがきの老女の姿は見えなかった。冬になったのでどこか別の、陽あたりのよい場所に移ったものと思われた。

「主人公は、彼等を探して心当たりを歩き回るのよね。」
「ふーん。それで?」
「あとは、読んでのお楽しみね」
「なあんだ」
「この本も、御多分にもれず、単行本は絶版状態なんだけど、短編の『老残』だけは、青空文庫にはいってるから、ネットでいつでも見られるよ。あと、『宮地嘉六著作集』全6巻が、自費出版みたいだけど、比較的最近出てるから、そっちのほうも、古本なんかで、入手しやすいと思う。不幸だった結婚生活や、二人の幼い子供たちとのしみじみとした、こじんまりした生活のことが書かれていて、とても味わい深い作家なんだよ。初刊本を古本で手に入れようとすると、とてつもなく高い値段がついてたりするから、この『著作集』がおススメかな。特に、晩年の作品を集めた第五巻が面白いね。あたしは、この『宮地嘉六著作集』の第五巻を、500円で買ったのよね。挟みこみの月報に、娘さんが父親の思い出を書いていて、それも、愛情深くていいのよね。」

その頃は麹町永田町の焼跡といっても、父の小屋のある文学報国会跡だけが草逢々とした空地であった。(略)いつ立退くかも知れず水道も電気もない生活をしていた。(略)父は留守だったり、机代りの木箱に向って原稿を書いていることもあった。
(略)ここに私宛の父の遺言書がある。書き損じの原稿用紙を裏返して綴じたもので、父が亡くなる一年前の年月が記されてある。(略)(『宮地嘉六著作集』第六巻月報・宮地彌生子『父』より)

「この古い本には、娘さんの、献呈先への直筆の手紙もはさまっていたんだよ。人柄の感じられるような、穏やかでさわやかな手紙だった。宮地嘉六は、いま、もっともっと読まれていい作家だと思うな!じゃあ、またね!」

「東京風人日記」(諏訪優)

苦斉としばらくのお付き合いを願います。
(略)旅とお酒と女性には目がない、といったところ。毎日のように散歩し銭湯へゆく。
風呂がないことがこれでおわかりだろう。
(略)田端の安アパートの六畳間にひとり暮らして、ときに詩など書いている人間である。

「今日は、詩人・諏訪優のエッセイ集『東京風人日記』を紹介するよ!」
「また、知らない人ねえ…。有名な人なの?」
「うーん、ひところは、アメリカのビート・ジェネレーションとかいう詩人のムーブメントの紹介者としてちょっと有名だったことはあるんだけど…それ以外では、あまり知られてないかな。自分でも詩を書いてて、詩集も何冊か出してるけど、その作風は、おだやかで、ビートからは程遠いものだったようだよ」
「ふーん。ところでそれ、図書館の本みたいだけど、いつごろの本なの?」
「奥付には平成6年って書いてあるね。文庫にもなってないから、読もうと思ったら、古本屋か図書館を探すしかなさそう」
「また、どマイナーな本を持ってきて…それでこれが、読み始めたらやめられない、っていうほどの面白い本なの?」
「うん、まあ、人にもよるかな…。元々は、その作者が、『東京タイムズ』に載せてたエッセイをまとめたものなんだけど、これが、とても読みやすくて、さわやかで、味があって、ちょっとつまむと、次々と食べずにはいられないスナック菓子のような、不思議な魅力を持った本なんだよ!」
「へえ」
「だから、のめりこんで、ギンギンに熱中して読むという感じとは、すこし違うかな。人によっては、毎日ちょっとずつ、清涼剤のように読む人もいるんじゃないかと思う」
「ふーん」
「冒頭にもあるとおり、質素な暮らしをしている詩人の、日常の一コマ一コマを、淡々とつづっているだけなんだけどね…。なんかこう、クセになるのよね」
「そうなんだ」
「これは、あたしにとっても、ちょっと珍しい読書体験だったね。詩人が、谷中を散歩したり、銭湯に行ったり、旅行したり、という、どうとない日常を短文につづっているだけなのに、なぜ、こう熱中できるのかな、っていう」
「ふーん」
「そこここで、不意にいろんな事象に遭遇しては、ちょっと一言、感想を述べる…といったスタイルなんだけどね。そういうコラムが、数年分あるの。ほとんどは、あまり事件の起こらない内容なんだけど、たまにはこういう事もあるの」

アパートの二階、六畳一間に暮しているわたしがやってはならないことをしてしまった。
夕方から風呂上りに谷中で夜中まで飲んで、かなり酔った状態で部屋の鍵を開け、(略)フト我にかえると、腕に子猫を抱いていたのである。
「しまった!」(略)あらためて腕の中の子猫を見た。
安心しきって、気持ちよさそうに眠っているではないか。
(略)酔いが急にさめて、振りかえって思うに、赤提灯を出て輪王寺のあたりでこの子に出会ったのだ。
車の通る道ばたで泣いているこの子を、せめてお寺の敷地内へ、と思って抱きあげた。山門の内側にそっと置いて、しばらくなでてから別れようとしたら、また激しく泣いて道路までついてきた。
「しようがない子だな!」などと言ったかもしれない。(略)はて、どうしたものか。

「この猫は結局、知り合いの書道家の女性に引き取ってもらうんだけどね…あと、行きつけの銭湯で」

数年前に番台を退いた、当時八十歳の文さんのことを思い出す。(略)
ある日のこと、(略)文さんが熨斗紙に包んだ木綿手拭いを客ひとりひとりに手渡して言った。
「八十になりましたのでここを降ります」年齢にも驚いたが、釣銭ひとつ間違えたことのない文さんの元気には、敬服していた。
(略)手拭いの包みに文さんの筆で「引退御礼・文」と書かれていたっけ。

「だとか、行きつけの文具屋で」

猫の”卓”は、いつも店内の一番快適な場所にねそべっていて、」わたしが毛をなでても拒まない。(略)
春子さんのお腹がますます大きくなった頃、店から”卓”の姿が消えた。
気にはなったが、うっかり聞けない。保健所へやられたか自動車に撥ねられたか、泣きでもされたらこちらもつらい。
男の子が生まれたそうで、それから二年、春子さんがまた店に顔を出すようになった。
そして、黒猫の”卓”も―。
不思議そうな顔をすると、春子さんは「赤ちゃんが猫の毛を吸うといけないから、しばらく友だちに預かってもらっていたんですよ」と言った。

「馬の思い出話で…」

馬は従順で美しい動物である。特に、あの眼が優しく、そして悲しい。(略)
少年時代、友人の家に一頭の馬がいて、その馬と親しんだことを時折り思いだす。(略)
友人の家の馬は戦争に行って帰らなかった。中国のどこかで、あの悲しい眼に涙をためて死んだにちがいない。

「だとか、詩人らしいこまやかな筆遣いで、日常が語られていくのよね。それが、なんてことないようでいて、こうして、まとまって読むと、ホントに豊かな詩的世界に住みついているような錯覚を感じるの」
「ふーん」
「そのなかでも、一番、トピックとしてとりあげられているのが、これね。「鳩のつがいらしいのが、窓辺にやって来て空いた植木鉢に巣を作った。」という一文から始まって、そこに雛がかえって育っていくさまを描いた一連の短文ね」

黄色い羽のクシャクシャッとした小さなのが巣の中心にいた。

「そして、前述の、書道家の女性と結婚し、いっしょに暮らし始めた詩人は…」

妻などは幼児語でしょっちゅう話しかけている。
「ここで育ったこと憶えていて遊びに来るかしら」と彼女は言った。(略)
夕方、その日の仕事をおえて帰ってきたら妻が泣いていた。
問い質すまでもなく、鳩の雛が巣立ったのである。
妻は自分の掌の中から、小さくて暖かい生き物が突然消えていったショックと、今にも降ってきそうな肌寒い天候を心配して、窓の外ばかり眺めていたらしい。
(略)雛は、飛び去る前に、妻がぬるま湯で溶いた蜂蜜を三口ほど飲んだという。(略)
「きょうはピーちゃんとたくさんおしゃべりしたのよ」夜中に目を覚ました妻はそう言ってまた泣いた。

「そしてまたエッセイは、いろんなことを話題にして、数か月ほど経って、あるときふいっと、この鳩が戻ってきて、妻の腕に抱かれるとこなんか、しみじみと感動するよね」
「へえ。人間に育てられて、人を恐れなくなったのかな」
「それはどうだか、わからないけどね。流れるように生きている詩人の身の回りでは、他にも色んな事が起きる。あたりまえに暮らしてるだけで、こんなにも世の中って、豊かなんだなあ、と、感じさせてくれるね」
「ふーん」
「いま世の中のテレビでも映画でも、安っぽい感動ものの押し売り状態だけど、こういう地に足の着いたものこそ、本物だなあ、という感じが、あたしには、したんだけどね」
「へえ、それで、この人は、今、何をしてるの?」
「それがね、残念なことに、このエッセイの連載中に、癌にかかって、亡くなってしまったの。だから、この連載エッセイも中断しているし、本も、亡くなったあとに出たものなんだよ」
「そうなんだ」
「だから、この一冊は、陋巷の一人の詩人の、生き方を総決算したような形の、奇跡的な一冊なんだよ」
「おおげさだなあ」
「本の中にも、ちょっとドキッとする場面があるの。たとえば…」

わたしが小学校の四年生の夏、二番目の妹が亡くなった。(略)
付けで買える菓子屋へ連れて行っては、キャラメルやチョコレートをよく買い与えて父母に叱られたものである。(略)
はるか彼方の幼年時代の夏よ。入院先から帰ると、妹は家中のどこを探しても居ず、位牌と写真が仏壇に飾られていたあの不思議さ。(略)
このコラムで書かせて頂いていることは、多少の誇張や作り事めいたことはあっても、ほとんど苦斉の、読み手を特定しない陽気な遺書の心つもりもある。

「この諏訪優って人の本は、ほとんど文庫にもならず、たぶん重版にもならずに、埋もれて行ってるんだと思うね。詩のほうも、評価されていたのかどうか、よくわかんない。解説を読むと、現代の詩人には珍しい、愛とか夢とかいう単語を取り入れた形の詩を多く書いていたようだけどね」
「そうなの」
「実は、今回の記事を書くにあたって、日本の古本屋のサイトで、現代思潮社から出ていた『諏訪優詩集』の署名本を買ったのね。有名な詩人じゃないから、ほとんど二束三文の値段だった。そしたら、巻頭の署名とともに、一句添えられていたの」
「うん。なんて?」
「『淋しさは夢すてにゆく冬の海 優』とね。」
「へえ。なんか、らしいっていえば、らしい句だね」
「この本のほかにも詩集やエッセイ集が何冊かあるみたいだけど、たぶん、この『東京風人日記』の一冊が最高じゃないのかな。しみじみとした秋の夜に、こんな一冊を読んでみるのもいいかもしれないね。じゃあ、またね!」

「THEルパン三世FILES増補改訂版」(キネマ旬報社・編)

「今日はこれだよ!『THEルパン三世FILES増補改訂版』!」
「えっ、ルパン三世やるの?去年、映画見に行ったよね」
「うん、山崎貴監督の3Dアニメのやつね…まあ、あれも、面白くなくはなかったけど、まあまあって感じだったね」
「なんだか、『カリオストロの城』を、ちょっと薄味にしたような感じだったけど…」
「あの映画そのものが、『カリオストロの城』へのオマージュって感じだったね。ルパン三世に対する愛にあふれた作品だとは思ったけど、それ止まりで、なんかこう、突き抜けたものはなかったよね。」
「そうねえ。見終わった後の満足度は、『カリオストロの城』に比べると、やっぱり見劣りしたね」
「でも、去年行った大野雄二のオーケストラ・コンサートは良かったでしょ?」
「そうだね!『カリ城』のライブ・ビューイングと、ルパンのメドレーとで、大満足だったね!」
「そのまた前の年には、モンキー・パンチの講演会にもいったしね!」
「うん、あれがモンキーさんを見る最後の機会になるとは思えなかったね…」
「おおすみ正秋監督も迎えて、貴重な話をいっぱい聞けたよね。行っててよかった」
「ところで、その本はなに?雑誌?」
「れっきとした、書籍なんだよ。キネマ旬報社編集の、ルパンの過去作に携わってきた人たちのインタビューや、全作品の記録なんかが載ってるの」
「へえ。古い本みたいだけど」
「1998年だから、まあ、古いよね。ルパンの第三シリーズまで終わってて、年一回のTVスペシャルが放映され続けた頃の本かな」
「ルパンって、今でも時々新シリーズが出てたりするよね」
「うん、次元が主人公になったり、峰不二子が主役になったり、いろいろ手を変え品を変え出て来るけど、最近のルパンは、どうも、カッコつけすぎで、シラケるのも多いんだけどね…ところで、ルパンって、TVで見始めたのはいつぐらいから?」
「あたしは、ものごごろ着いた頃から、いつの間にか、TVでやってた、って感じかな。再放送派だね」
「あたしもそうなんだけど、最初は、ただ、さわがしいだけのアニメだと思ってたの。ところがね…」
「うん?」
「TVで、ルパンの一番最初のシーズンのやつ…大隅正秋や宮崎駿やら高畑勲がやってたころの、23話分を見て、ぶっとんだの。これぞ、本もの中のホンモノだ!第二シーズン以降は、これの設定だけ借りた、パチモンだとすら思ったね」
「おおげさだなあ。まあでも、第一シーズンが一番面白かったってのには、賛成だけどね。あたしは、第二シーズンも好きだけど。第一シーズンって、そう言っちゃなんだけど、なんか、暗くて、頭空っぽにして見れないじゃない?」
「まあ、そういう面もあるけどね…ところで、この本全体を読んで思ったことなんだけど、やっぱり、第一シーズンと『カリオストロの城』の存在感の大きさよね。この本の中でも、その二つに大きく頁が割かれてて、第二シーズン以降は、ほとんど触れられていないくいらい」
「そうなんだ。最近、またTVで、第二、第三シーズンを再放送してるね。まあ、見てないんだけど…」
「まあ、第二シーズン以降は見なくてもいいかな、って感じはあるよね。宮崎駿の演出した『死の翼アルバトロス』と『さらば愛しきルパン』は見る価値あるかなとは思うけど」
「無慈悲ねえ」
「だって、この本の中でも、第二シーズンでは、それしか触れられていないんだから。森卓也の『カリオストロの城』分析論がドーンと載ってるし」
「ふーん」
「ルパン三世のアニメって、そもそもの立ち上がりからして、それまでのアニメとは異質な存在だったみたいなのよね…最初は大人むきの劇場用お色気アニメとして発想されたらしいの。パイロットフィルムも作られてね。でも、それがゴーサインが出ず、1年くらいたって、読売テレビから30分もののTVシリーズにするということなったの」

子供のためではなく、大人のためのアニメーションという企画は大隅を夢中にした。(略)自身ルパンの熱狂的なファンだった大隅は、まずライターには(註・原作マンガの)『ルパン三世』を知っているかどうかを聞いた。知らなければ、外した。最初に決まったのは若松孝二のもとでアングラ風の奇妙な殺し屋映画を作っていた大和屋竺という男だった。(略)音楽は『七人の刑事』の山下毅雄に声をかけた。「孤独な音色を出せるのは日本で今あなただけだから」と口説いたという。(高橋実インタビューより)

「しかし、アンニュイな雰囲気の大隅ルパンは視聴率的には惨敗だった。あとを引き継いだのが、宮崎駿、高畑勲だった。お色気担当だった峰不二子は短髪の元気な美少女になり、ドタバタも増えて行った。それでも、いったんどん底まで落ちた視聴率は戻らなかった。結局、全52話の予定は23話で打ち切られた。」
「うん」
「あたしなんかは、宮崎ルパンも凄かったと思うから、ぜひ52話まで続けてほしかったと思ってるんだけど、大塚康生のつぎのような発言を読むと、仕方なかったかなとも思えてくるのよね」

実際問題として、僕たちにはもうあれ以上作る余力はなかった。それほど疲れ切ったのを覚えています。(略)もうこれ以上の話は出来ない。週一本の放映スケジュールの中で、ストーリーもアクションも考え尽くしてやってましたから。(大塚康生インタビューより)

「なるほどねえ」
「しかし、その後の夕方の再放送でルパン人気は徐々に高まり、沸騰する。再放送枠での視聴率史上最高値を達成し、第二シリーズの企画が5年ぶりに持ち上がる。その際、新たなスポンサーから、エンターテインメント色の強い作品を制作して欲しい、音楽と主題歌を変えたい。声優役の五エ門と不二子を変えて欲しいという要望もなされたというのね」(『私の「ルパン三世」奮闘記』(飯岡順一)より)
「ふーん」
「ただ、第二シーズンは、視聴率的には好調であったものの、視聴者からの意見では、「全作に比べ痛快さに欠ける。スリル、アクションがピリッときいていない」という意見もあったらしいね。家族みんなで見られるという健全さは好評だったらしいけど」
「そうなんだ」
「あたしも、批判的な意見に賛成だな。その後のルパンは、なんか緊張感に欠ける。山田康雄も言ってるね。ガキっぽくなちゃったって」
「まあ、それはあるかもね」
「第二シーズンの功績としては、二つの劇場用ルパンを作りだす要因になったってことかな。吉川惣冶監督の『ルパンvs複製人間』、宮崎駿監督の『カリオストロの城』ね」
「うん、それはあたしも賛成だな」
「『ルパンvs複製人間』は、第一シリーズのスタッフを再結集させた、ってのが売り文句の上映だったらしいけど、その言葉どおりの、第一作目の雰囲気をうけついで、スリル、スピーディさ、ギャグの切れ、どれをとっても正統な後継者だったよね」
「うん、面白かった。敵もとんでもなくスケールのでかい相手だったし。スペクタクルも申し分なかった」
「脚本は、吉川惣冶監督と、大和屋竺の共同になってるけど、ほとんど吉川監督の単独だったらしいね」
「へえ、そうなんだ」
「やっぱり面白さってのを知ってる人が書くと、違うのよねえ。『カリオストロの城』の宮崎駿監督なんて、骨の髄からエンタメの骨法を知り尽くした人だからね」
「そうなの」
「昔の東映映画で、『長靴をはいた猫』ってのを、見てみれば、わかるよ。井上ひさし脚本、矢吹申彦監督だけど,後半のアクションは、ほとんどその時ぺエペエだった宮崎駿のアイデアだったらしいよ。魔王城の粘土細工までつくって綿密に考え抜かれたハラハラのアクションシーンだったんだから」
「へえ」
「昔から宮崎駿って人は、高い場所でハラハラさせながら戦うシーンが大好きであったということがよくわかる映画だよね。おかげで、井上ひさしのシナリオはほとんど使われなかったらしいけど」
「ふーん」
「同じ東映の『どうぶつ宝島』もそうだよね…いけない、話がそれちゃった。『カリオストロの城』には、こんな話が伝わっているよ」

私がひとりで(略)思案して苦しんでいたそんなある日、宮崎さんから電話がありました。
「大塚さん、『ルパン』をやるんだって」(略)
「(註・鈴木清順から上がって来ていた)本がね、まるで違うんだけど…一緒に考えてくれない?」
「ぼくがやろうか…」
私はやった!と天にも昇る思いでした。宮崎さんがやればこの作品は絶対に面白くなる。(略)(大塚康生「作画汗まみれ」より)

「鈴木清順って人は、実写映画で『ツゴイネルワイゼン』なんかで前衛的な傑作を作ってる人なんだけど、きちんとしたストーリーを作るには不向きな耽美派な人だったと思うのよね。この人がのちに作った『バビロンの黄金伝説』は、まるで雰囲気映画みたいな、得体の知れないストーリーのルパン映画だったし…。それと、手塚治虫も、『カリオストロの城』には衝撃を受けていたらしいね。大塚康生を前に、僕は見てないんです、といいながら、その実、虫プロのスタッフの証言として、前日まで試写室に一日中こもって、『カリオストロの城』を際限なく見返していたそうだよ」
「ふーん」
「ところが、その宮崎監督にしてからが、『カリオストロ』以降は、ルパンをやる気がなくなっちゃって、第三作目を依頼されたときも断って、押井守を推薦したそうだよ」
「へえ。『攻殻機動隊』の?」
「そう、ところが押井守は、『もうルパンなんか時代遅れだ』と考えて、とんでもない企画を持ち出してきたのよね」

最終的にルパンなんかどこにもいなかったという話にしようと思ってたんです。じゃルパンだと思ってたのは誰なんだということになるんだけど、(略)あの連中はみんな変装の達人なんですよ。最初ルパンだと思ってたのが次元だったり、銭形と見えたのがルパンだったり(略)全て事件が終わった段階で(略)そのときルパンはいなくなっていて、ルパンはどこへ行ったんだ(略)全部が虚構で全部がどんでん返しで、確かなものなんか何もないという話。(略)もしかしたらルパンは最初からいなかったんじゃないか(略)(押井守インタビュー)

「これが制作側から猛反発をくらって、押井守は降ろされるわけだけど…まあ、その理由もわからないこともないんだけど…。押井守は、この時の材料が、のちの『うる星やつら・ビューティフル・ドリーマー』や『パトレイバー』や『攻殻機動隊』に生かされたと語っているね」
「うん」
「ところで、宮崎駿だけど、彼も、制作側から第二シーズンの二話分の監督を要請されるんだけど、乗り気じゃなかったみたいね。実際、制作された『死の翼アルバトロス』は。『未来少年コナン』の焼き直しみたいな話だったし、最終話の『さらば愛しきルパン』は、延々暴れまわったのは、実はニセルパンで、本物のルパンは、最後にチラッと顔を出すだけだったしね」

3年間つづいた新ルパンは、(略)高視聴率をあげ、商売としては成功したかもしれない。が、時代の子には一度もなれずじまいだった。むしろ、時代とのズレを売り物にする、アナクロナンセンスドタバタのなかへ息ぎれしていったのは無惨としかいいようがない。(宮崎駿「ルパンはまさしく、時代の子だった」より)

「それで、第二シーズン最終話の演出を任された宮崎駿は、」

「もういままでのルパンは全部ニセモノだったというようなトッピな話にしたんですが、かえってヒンシュクを買ってしまいました」(高橋実『まぼろしのルパン帝国』より)

「というような話だったらしいのよね。これで、なぜ『さらば愛しきルパン』が、ほとんどニセルパンの暴れる話に終始していたかの謎が解けるよね」
「ふーん」
「でもあたしは、ルパンは、確かに時代遅れの存在かもしれない、けど、それでもなお、活劇精神が映画やテレビの世界から消えてなくならない限り、復活は出来るんじゃないかと思っているのよね」
「へえ」
「宮崎駿以降のルパンがダメなのは、脚本造りの要点がズレてるからじゃないかと思っているの」
「ふーん?例えばどんなふうに?」
「まず、ルパンの性格としてのとらえかたね」
「へえ」
「ルパンの性格、三枚目でおちゃらけてて、みんなを楽しませること、カッコいいこと、愛されることが第一、なんて考え方じゃだめなのよ」
「そう?」
「だって、ルパンって、無個性なんだもの!」
「無、無個性?」
「そうよ、昔のルパンってのは、しっかりした、かたき役…悪があって、敵役…陰謀、ガジェット、といってもいいよね…そんじょそこいらの妨害ではびくともしない、まるで強固な現実世界のがっちがちの厳しさに似た、制度としての悪があって…それは、巨大で絶望的なまでに残酷な現実社会というものに、卵からかえったばかりの雛のような若者が直面して立ち向かっていかざるを得ないような…それを、おちゃらかした男が、やすやすと手玉にとる、メンツをつぶして嗤ってしまう、そういうことで、視聴者の留飲を下げる…そういう、図式の上で、ルパンの個性ってのは、なりたっていたと思うのね。強い存在の敵役、ガジェットあってこそのルパンの個性だったわけよ。それが、新作では、まるきり敵側が腑抜けになっちゃって、魅力ある独自の陰謀も作れていない、銭形警部からして、最初からマヌケに設定されて、相手にもならないような状態で…「悪」側にしたって、最初からルパンにバカにされるのを待ってるような、図式的な、うすっぺらいやつしか出てっこなくなってたんだもん」
「敵役、つまり相手側がしっかりしてないと、ルパンの冗談も個性も生きないってこと?」
「そうよ、さんざん迫力もって迫ってきた敵役をおちゃらけた態度で、笑いとばし、爽快に抜き去ることで、ルパンの個性ってのは、初めて、なりたってたはずなのに、相手側のそこがぐずぐずになってたから、新作以降のルパンは、全然その良さが生かされてなかった、個性を発揮できなかった、ってわけ。敵役も、ただ怖いだけじゃダメなのよ、やられ方にも芸ってもんがなくっちゃ。『罠にかかったルパン』や、『どっちが勝つか三代目』での、敵の首領の、ルパンにしてやられたときの、マヌケ面の芸なんか、見た?それまでの落差で、笑わせるったらないよ。カリオストロの伯爵にしたってそう。やられ方にアイデアがあり、ひねりがあり、芸があるってそういうことだよね」
「敵側の陰謀にも、新作以降は芸がなくなったってこと?」
「そういうことよね。ちょっとやそっとじゃ、こじあけられない、まるで現実世界の厳しさを反映したような、難攻不落ともいえる強固な威厳を持ち、それを存在意義そのものから、おちゃらかされることによって、ますます、やられ役としての輝きを増すような、芸術的な芸をもつ敵役の存在がね、ルパンには必要だった、また、それがなくては、ルパンそのものも、無個性のままボーッとしてるか、無意味にバタバタ動いてるかしかなかったってわけよ」
「うーん」
「そこが、去年の山崎貴版ルパンにも欠けてたわけよ。その点、吉川惣冶監督、宮崎駿監督はわかっていたのね。敵役がいかに魅力的な強固なガジェットを提供できるかってのが、このルパン物語の核には必要かってこと。どっちも、銭形が頭の切れるはつらつたる敵役になり切ってたもんね。主敵である、マモー、カリオストロ伯爵はもちろんのことね。ルパンの敵役で、新作以降思い出せる人物っている?」
「うう。そういえば、旧作の悪役は、全部思い出せるけど、新作以降、テレビスペシャルもふくめて、マモーとカリオストロ以外は、思い出せない。…」
「そうなのよ。敵役、ガジェットに血がかよってしっかりしていなければ、ルパンの個性も出てこない、出せない、それがルパンが失速した原因だと思うな」
「そうなのかあ」
「窮屈な社会に対するアンチテーゼとして出てきたキャラクターが、強固な『敵』が消滅するか、腑抜けになることによって、自らの存在意義すらみうしなってしまうという、よくある話になってしまうのかもね。劇場第三作の『バビロンの黄金伝説』も、敵役がいかにも役不足で、謎の設定も役不足、それで失敗作になってしまったんだもん」
「ううん」
「ホントはアニメの話なんかする予定はなかったんだけど、今回、一晩中、この本を読んで、あまりにも面白かったんで、ついつい語ってしまったな。今後、マンガなどについての本も、紹介していこうかな。じゃ、今回はこんなところで。またね!」

埋もれている傑作映画5本

「さあ、今日は、またちょっと本の話題を離れて、映画の話だよ!」
「あのさあ…また?いいの?ここ、本のブログでしょ?」
「いいの!映画だって、見始めたが最後、徹夜してでも見たい映画だってあるでしょ?それに、映画に関する本も世の中にあふれてるんだし。本が原作になってる映画なんて数知れないし。このブログを見てくれてる数少ない読者のひとたちも、きっと映画にも興味はあると思ってるの」
「まあ、それはどうだか、わかんないけどね…」
「せっかくだから、今日も、また、あまり世には知られてない作品で、あたしがこれまで見てきて、なんでこれが評価されないのかわからない、と思った、埋もれた傑作映画を紹介するよ!題して、『もういちど観たい、隠れた傑作映画ベスト5』!」

1・「ビデオゲームを探せ」

幼稚園児だったころかな…お父さんが借りて来たビデオを見て、衝撃を受けたのよね。せがんで、何度も見せてもらってたなあ。ある少年が、ギャング組織の秘密を収めたビデオゲームをふとしたことから手に入れ、その組織から命を狙われる、しかし、大人はだれも信用してくれない、少年は自分ひとりでその組織に立ち向かわざるを得ない…。
少年の味方になってくれるのは、彼が心の中で作り上げている、イマジナリー・フレンドならぬ、イマジナリー・ヒーローであるたくましい一人の軍人だけっだった…。素晴らしいのは、決してこの軍人が実体化して戦うみたいな、スピルバーグのファンタジーものによくあるような、安易なストーリにはならないことよね。イマジナリー・ヒーローは、最後まで、少年の心の中にのみあり続けるだけでありながら、最後には、彼を助けて、炎の中へ去っていくの。
大感動ものだったんだけど、いま調べてみると、映画自体、日本未公開で、ビデオが出たっきり、DVD化もされていないのよね…。当時ビデオは高くてとても買えたもんじゃなかったし、いまじゃ、手に入れてもデッキがないから、再生できないしで、うろ覚えのまま書くしかないんだけど、あたしの幼児体験として、かなり強い痕跡を残して行った作品なのね。忘れられてる傑作としては、代表的なものじゃないのかな、と思ってる。まあ、思い出補正もあるかもしれないけどね…。

2・「NAGISA」

日本映画。いつだったかBSでやってて、忘れがたい印象を残した作品。ある港町での、一人の少女を中心にしたひと夏の出来事を描く、といった感じの抒情もの。港町のゴミゴミした商店街の、迷路のような一角などが、信じられないような流麗なテクニックで描写されていくの。
少女は、ずっと、行方不明になった猫を探している。それを基調低音として、都会からやってきた男の子とのあわい交流などが描かれる。寺の住職として、柄本明が出ていたかな。まあ唯一の瑕疵としては、少年がおぼれ死んでしまうみたいな、みえみえの感動場面をいれたりしてた点かな。結局、猫は見つからず、街は暗がりの中に少女と共に存在し続ける…という感じだったかな。雰囲気としては、大林宜彦の「さびしんぼう」に似てた感じだった。監督は小沼勝といって、エロ映画を主に撮ってきた人らしいね。見たことはないけど。これのDVD、再販されてなくて、いま手に入れようとすると、とんでもない高値になってしまうのよね。

3・「クレージーだよ 奇想天外」

クレージーキャッツものの後期の一作で、珍しく谷敬主演。植木等は助演ね。全体にファンタジックな仕上がりでストーリーもきっちりしてて、笑わせて泣かせてくれて、もしかしたら、クレージー映画のなかでも一番すっきりまとまってるんじゃないかと思う。谷敬の宇宙人が、ドジでかわいくて切なくていとおしくなるのよね。若き藤田まことの、好演もいい。いかにも駆け出しの漫才師って感じ。歌謡ショーの場面では、とてつもなく若い内田裕也も見られるしね。ストーリーはほとんど忘れちゃったけど、別れの場面なんか切なくて、大感動した記憶があるな。監督は坪島孝。そつなく職人仕事をなしとげる、といった感じを受けたな。ただ、同じ監督の「クレージーの怪盗ジバコ」は、つまらなかった。


4・「多羅尾伴内」

白黒のころのやつじゃなくって、小林旭が主演したカラーのリメイクのほうね。テレビで見たんだけど、衝撃的だったなあ。監督は、「トラック野郎」の鈴木則文。ある連続殺人の背景には、過去の殺人事件が要因となっており、その被害者の復讐によるものだった。女性歌手が、舞台の上で、鎖に締め付けられ、宙づりにされ、ついには、上半身だけ切断されて舞台に落下するシーン、すごかったなあ。小林旭は、もう、ノリノリで、非現実的な超人探偵を演じるし、おいおい、と思いながらも、このノリは、小林旭以外には誰も出せないような、スターのオーラに満ち溢れていたね。ヒーローものにあえて酔う、うっとりとする、という快感を感じさせてくれたね。鈴木則文の職人仕事が見事。

5・「ガンモール」

マフィアのボスを、ただ独りの力で、だまくらかし、きりきり舞いさせる情婦・ソフィア・ローレンの話。脚本がおそろしく良く出来ていて、彼女の、つなわたりのような危うさの中での、立ち回り方、騙し方のテクニックが絶品。全体を覆う狂騒的なテンポもすばらしい。大爆笑とサスペンスの素晴らしい融合。なんでこれがアマゾンプライムに入ってないのか、理解に苦しむわー。

「興味を持った人は、ネットで調べるか、もしDVDかTVで見られる機会があったりしたら、ぜひ見てみてね!それじゃ、またね!」

「貧困旅行記」(つげ義春)

深沢七郎の「風雲旅日記」を読むと―(略)行ったところへ住みついてしまうのだった―というすごい旅のしかたをしているが、私も以前これと似たような旅のしかたをしたことがあった。住みつきこそしなかったけれど、住みつくつもりで出かけたのである。
(略)行く先は九州。(略)そこに私の結婚相手がいたからだった。といっても私はこの女性と一面識もなかった。二、三度手紙のやりとりをしただけの、分っているのは彼女は私のマンガのファンで、最近離婚をし、産婦人科の看護婦をしているということだけだった。
(略)とにかく結婚してしまえば、それが私を九州に拘束する理由になると考えたのだった。そしてマンガをやめ、(略)遠い九州でひっそり暮らそうと考えた。
(略)二十数万円の所持金と、時刻表をポケットにつっこんだだけの身軽さで私は新幹線に乗った。私の間借りしていた部屋はそのままだが、机と蒲団しかないので、私が消えてしまっても家主は困らないだろうと、あとのことは考えなかった。
(略)今決行しなければもう二度とチャンスはないかもしれない。このまま日常に戻ってはまた鬱々とした日々を過ごさねばならない、それもうっとうしいことであった。ベルの音にせかされて、けっきょく私は観念して、役者が舞台にとび出して行くような気持ちで、小倉行きの切符を買い、発車間際の列車にとび乗った。

「今日は、つげ義春の『貧困旅行記』だよ!」
「つげ義春って、昔の漫画家でしょ?文章の本も出してるの?」
「そう。数はすくないけどね…。これと、『つげ義春とぼく』、『つげ義春日記』、『旅籠の思い出・苦節十年記』の4冊しか出してないけど、どれも、すっごく面白いんだよ!」
「ふーん。旅行の本って、いろんな人が書いてるよね。これもそんな感じの本なの?」
「それが、そんじょそこらの旅行本とは、レベルが違うわけよ。あたしも、この記事を書くために、数年ぶりに読み返してみたんだけど、あっ、ここは引用したい、ここも!ここも!ってなっちゃって、本が付箋だらけになっちゃったの。もう、そこいらの小説家が、はいヨーロッパに行きました、アジアを放浪しましただの書いてる並の旅行記とは、本質的に違うわけね」
「へえ。どんなところが?」
「冒頭に引いた文章でもわかるとおり、著者は、もう、生きている事というか、日常の世の中にいることに居心地の悪さを押しつぶされるほどに感じていて、なんとかそれから逃れたい、と、救いを求めるような覚悟で旅行に出るわけよね」
「おおげさだなあ」
「いやー、つげ義春のマンガを読むとわかると思うんだけど、いつも、世の中から逸脱し、人の目を避けるように避けるように、自分というものが人から忘れられ、存在さえ消し去られ、消えるようにして滅していきたい…という作者の究極の希求ってものが、この作家の根幹をなしているんだと思うわ」
「ふーん」
「その希求を表わすのに使われるガジェットが、古い日本の打ち棄てられた廃屋であったり、鄙びた、乞食状態寸前の山奥の鉱泉だったりするわけね。これがまた、この作者の目、というか手腕にかかると、世の中から外れた無用の存在の、でも最後の最後、ギリギリの中に救いを内に秘めた、いとおしい、胸の中に小さくある貴重な存在になってくるわけね」
「なんだか難しいなあ」
「ごめん、ちょっと先を急ぎ過ぎたかもしれないね。でも、もう自分なんか、消え行ってしまいたい、世の中から外れて、無用の、卑小な、けしつぶのような存在になって、わびしく、ちまちまと、誰にも知られぬ自分だけの小さな精神世界だけで生きていきたい、って心理は、まあ、わからないことはないでしょ?」
「そうねえ」
「それで、こういう希求を内に秘めた人間の旅と言うのは、とぼとぼ歩きながら、うつむいて、足元の石ころかなんかばかり見つめながら、いつも居心地悪さを感じ、ここではないどこかへ消えてしまいたい…と感じている、…そういう、細かなものに目を向け、個々の事象に、限りない愛惜を見出していく行為になるわけよ」
「なんだか複雑だねえ」
「そう。『世の中の自分』という存在から、『自己』を解き放ちたい、そこにこそ、本当の自由があるんではないか、救われたい…と、そういう憧れを捨てきれない気持ちを持った人間が、『旅の空』というか『自己を一種のトランス状態にもっていく彷徨』に、一縷の、一瞬の安らぎを求めてさまよっていく記録…それが、この旅行記だと思うの」
「ふうん。なんだか、哲学みたいね」
「こういう発想は、日本の、昔の乞食聖人に通じるところもあるよね。身分ある高僧が、わざと失踪し、乞食をしながら、行乞の旅を続け、朽ち果てていくという…」
「ふーん」
「本人にしてみれば、真剣なのよ。そこから、この作家特有の、旅の仕方が始まる…。この人にしか見えない景色が、光景がひろがっていく、その精神世界のうつし鏡のような記録でもあるわけね」
「へえ」
「冒頭の、九州へ蒸発する旅は、こんなふうに続くのよ」

私は家出して来たことを告げると、彼女はとくに驚きは見せず、むしろ歓迎する風で、
「私の部屋にくれば弟も喜んで来るわよ」
というので、私は面食らった。(略)弟なんかがのっそり現れるのは予定外のことだった。
(略)無断で外泊は禁じられているとのことで、また来週の日曜日まで会えないと云って、十時頃帰って行った。
私は一週間待たされることになった。(略)どうにも間がもてず旅行に出た。
(略)湯平は年寄りの浴客の目立つ山間の湯治場だった。(略)
宿屋の近くに、ごく普通の民家を改造したストリップ小屋を見つけたので夕食後行ってみると、まだ時間が早いせいか客は一人もいなかった。舞台の脇の廊下で踊子が一人で化粧をしていたので話しかけてみると、九時頃に来てくれと云われた。出直すと今度は満員だった。
(略)踊子はネグリジェ姿で舞台に現われると、いきなり、
「そちらのお兄さん澄ましてないで前へいらっしゃい。東京から私を見に来たのでしょ」
と私に冗談をとばした。先ほど私と二人きりで話を交わしたときは無口で恥ずかしそうにしていたのが、舞台に出ると人が変わったように大胆だった。(略)
宿屋に戻ってからも、私は彼女の視線が意味ありげに思え寝つけなかった。(略)もう一度ストリップ小屋に行ってみると、一回の公演の終ったあとで客席は空だった。(略)待ちきれず、何人集まると始めるのか訊いてみると、最低五、六人ということなので、一人で五人分の料金を払い舞台を独占した。
彼女はバタフライ一つ付けただけで踊ろうとしたが、私は手招きして自分の目の前に坐らせた。(略)すると俄かに感情が高ぶり、(略)すがりつくように抱きしめた。(略)
「こうしているだけでいいんだ、こうしていると何となく安心できるんだ」
と、甘いセリフがすらすら口をついて出た。そして、
「今夜つき合ってよ」
と云うと、彼女はこくりとうなずいた。
(略)普段の時分では考えられない度胸であった。蒸発をしてからの私は、自分の心が何処かへ消えてしまったような、解放されすぎて宙に浮いているような状態になっていた。

「うーん、なんか、じわじわくるというか…」
「そう、もうこれは一種の冒険物語よね。自己を解放するためのさまよいというか…」

彼女は約束の時間より三十分ほど遅れて来た。風呂で化粧を落とし、髪も短く別人のように現われた。(略)素顔の彼女はごく平凡な娘のようだった。二十歳前後だろうか恥かしそうにうつむいていた。私は話題に困り、おきまりの身の上話を尋ねた。彼女は博多で女工をしていたが、男にだまされてこの杖立温泉に売りとばされたのだった。
(略)彼女は舞台の淫猥な姿態とはほど遠い未熟さで、まるで棒のようだった。私は彼女がいとおしくなった。
翌朝十時頃目覚めると彼女はいなかった。
(略)私はこのまま別れてしまっては悪いような気がした。(略)ストリップ小屋へ挨拶に行った。(略)だが彼女は散歩に出たとかでいなかった。
(略)こんな場合の別れの挨拶は苦手である。だが名残り惜しい気持ちもないではなかった。(略)私はまた「ストリッパーのヒモになって、方々の温泉地を流れ歩くのも悪くないな」と思ったのである。
私は去りがたくなりバスの後方へ目をやった。と、そこにM子(註・ストリッパーの女の名)の姿が目に映った。M子は乳母車を押していた。座長の子供の子守をしながら散歩をしているのだった。(略)私は見をかくすように座席に体を沈め、後髪をふりきるように目を閉じた。バスは発車した。

「そして小倉へ戻り、看護婦のŞ子と再会するが…」

私はどうしたものか迷った。迷ったままŞ子と寝た。(略)Ş子は私が失踪して来た理由は訊こうとせず、まるで意に介さず、いともたやすく私を受け容れてくれようとしたが、(略)ひとまず東京に戻り、ゆっくり考えて出直してくれという意味のことを云って別れた。
(略)蒸発がいったん元に戻ってしまってはおしまいだと思った。その後Ş子からは度々哀切な手紙が来て私はぐらつくこともあったが、ついに一通の返事も出さなかった。
(略)私の蒸発はまだ終わってはいないような気もしている。現在は妻もあり子もあり日々平穏なのだが、私は何処かからやって来て、今も蒸発を続行しているのかもしれない、とフト思うことがあるからだ。

「うーん、なんか、不思議な感じだねえ」
「とにかく、この旅行記、といっていいかどうかもわからない、彷徨の記録は、他のどの旅行家も真似できない、いや、真似することそのものが、不可能なくらいの異質性をもっているわけね」
「そうなんだ。蒸発願望ってこと?」
「まあ、それに近いと言えるかもしれないね。つげ義春の場合は、それに、昔の…というか、古い日本家屋、藁ぶき屋根の農家とか、うらぶれたゴミゴミした貧乏じみた宿とかの、誰からも見向きもされない、打ち捨てられた景色に、自分だけの桃源郷を見出したりするリリシズムが重なってくるけどね」
「うーん」
「それがまた、ハマると、たまらないのよ。こういう風情ってのは、日本には昔から文芸の世界ではあったと思うんだけど、抜群のテクニックと、ストーリー構成で、マンガの世界にそれを打ち立てたのは、つげ義春が最初で最後なんじゃないかな」
「そうなの?」
「うん。つげ義春の、これは、本人が認識しているかはどうかは別にして、もう抜群の技術で、そういう自分の心象世界…旅における、自己また他者の観察のありようを、まざまざと、普段あたしたちが感じてるのとは全く違う見方で、とらえるわけね」
「ふーん」
「それはもう、あざやかすぎるほどあざやかな技巧で、いったんつげ義春の手に触れると、世の中のありふれたもの…崩れかかった廃屋とか、近所の小汚い野良犬までが、ミダス王が手に触れるものみな金に変化してしまったような不可思議さで、大きな意味をもってくるのよね」
「ふーん。でも、ちょっとおおげさなんじゃない?」
「いやー、この作者にいったんかぶれると、もう、抜け出せないトリコになっちゃうんだって。この作者が出会った人生における様々な事象の行く末、顛末のとりこになり、その、打ち棄てられた桃源郷に、もうすべて身をゆだねたい、と、もう、なにもかも、どうでもいいんだ、と思うその麻薬的とも言えるトランス状態に、一気にひたりこまされてしまうのね」
「へえ」
「だから、この作者にとっては、人生における様々な事柄、出会い、事件、そのものが、いちいち自己の一番弱い部分を突いてくる『サスペンスフルな事案』になってくるわけね」
「そうなの?」
「冒頭に長々紹介したのは、この本のなかでも一番強烈な、『蒸発旅日記』というんだけど…他にも、いろんな、温泉や山中を家族と共にさまよった記録があって、たとえばこんな感じであらわされてるのね…この本のなかでも『蒸発旅日記』につぐ名編だとあたしが思ってる『猫町紀行』なんだけど…」

犬目宿はよほど宿場にくわしい者でないと知る人もいない山深いさびれた宿場であるが、そこへ十二、三年ほど前訪ねて行き道に迷ったことがある。迷ったため残念なことに犬目宿に到達することはできなかったが、そのとき思いがけず、私が湯治場や宿場を訪ねる目的としている光景に出会うことができた。

「著者は友人の車に乗せてもらって、山中をさまよい、迷いに迷った挙句、夕暮れ時、山頂にちかいとある地点で、一瞬のうちに通り過ぎた、車窓から見えた信じられない光景に目を疑うのよね」

ちょうど陽の落ちる間際であった。あたりは薄紫色に包まれ、街灯がぼーっと白くともっていた。(略)夕餉前のひとときといった風ののどかさで、子どもや老人が路に出て遊んでいた。浴衣姿で縄とびをする女の子、大人用の自転車で自慢そうに円をかいてみせる腕白小僧、石けりをする子のズボンには大きなつぎが当っている。(略)縁台でくつろぐ老人。それは下町の路地裏のような賑やかさであった。
宿場といえば、たいてい時代からとり残されたようにひっそりと静まりかえっているものだが、ここでは健康で清潔で人々は生きいきとしている。こういう辺鄙な山の中で、こういう営みをしているところがあろうとは…。私たちは暗いトンネルのような樹間をぬけて来たので、急に目の前にした光景をみて、ことさら別世界に、人里はなれた隠里に迷い込んだように思えたのだった。

「一瞬のうちに通り過ぎた、山の中とは思えぬその世界を、作者は、幼いころ読んだ、萩原朔太郎の『猫町』に重ね合わせる」

「猫町」は、もの思いにふけりながら散歩をする癖のある詩人が道に迷い、白昼夢とも幻想ともつかぬ猫の町に迷い込んでしまうという話である。(略)先ほどの美しい光景は「やっぱり猫町と似ているなあ」と思えるのだった。

「そして、五、六年後、犬目宿のことは忘れかけていたが、ふと、またあの光景に出会いたいものだ、と、ふたたび、友人の車で訪れてみた。しかし、立ち寄った駄菓子屋のオカミさんに意外な事実を告げられる。」

「でもこの前の火事で焼けちゃったからねえ」

「そして、せめて焼け跡でも見たいと、車を走らせるが、また道に迷い、もはやそれすら見つけることはできなかった。」

「やっぱり猫町だな。いつかちらりと垣間見せてくれただけで、もう二度とお目にかかれないとは…」

「……どう?」
「うん、雰囲気たっぷりの紀行文だね」
「そうね。この本には、こういう、味わいの深い紀行文が、満載なんだよ。おまけに、作者本人による、鄙びた昔の日本の、寂れた、今となっては貴重な風景の写真もいっぱい入っているんだよ」
「へえ」
「これで、つげ義春の旅行記が、他の人のそれとは、全く異質のものであることも、わかったでしょ?つまりは作者の、かそけきもの、古びて滅びていくものに対する、限りない愛惜の念をもった、独自の皮膚感覚によるものなんだよね。これには、あたしもイチコロで参っちゃったなあ。」
「うん」
「へっへー。ところでね、この話には続きがあってね…」
「うん、何?」
「あたしが高校生の頃、この、つげ義春にかぶれて、実際にこの犬目宿をさがしに行ったことがあるんだよ」
「えーっ?」
「あんたはまだ小さかったから、覚えてないだろうけど…当時、『つげ義春を旅する』(高野慎三)という本を古本で発見してね…つげ義春の取材した各地方を実際に旅して、まとめた本だったんだよ。それを参考に、行ってみたの」
「ふーん。それで?」
「もうその時ですら、その本も出てから十年は過ぎていたから、果たして犬目宿が存在してるのだろうか、と、危ぶみながら旅してみたのね…。そしたら、なんと!あったの!」
「本当に?」
「うん、上野原からさんざん山の中を歩いてね、『つげ義春を旅する』にあった通りの、犬目宿の記述そのとおりの場所にたどりつけたの!」
「へえー」
「もちろん、休日の昼間だったし、人っ子一人いなかったけどね…。これに感激して、この『貧困旅行記』『つげ義春を旅する』に出てくるつげ義春作品に登場する各地域に徒歩旅行に出かけたのよ。大原の、『ねじ式』の汽車が到着する住宅跡にも行ったし、白土三平が、足を突っ込んだとかいう、夷隅川の掘削跡にも行ったよ!湯宿温泉にも行ったし、『貧困旅行記』で、「日本のチベット」と書かれてた秋山郷にもいったし、養老温泉にも行ったし、御岳山なんて、近いから、いまでもフラリと行ってたりするよ!」
「それって、ひとりで行ったの?」
「そう、観光地なんかじゃ全くないから、本と地図をもって、トボトボと一人で歩いて行ったよ。西部田村のバス亭を見たときは、感慨深かったなあ。そうそう、御岳山なんて、つげ義春が写真に撮ってたのと同じアングルで、打ち棄てられたように置かれていた荷押し車が、そのまま残ってたの!去年行った時も、そのままあった!感激して、行くたびに写真に撮って来てるよ!」
「それって、見ようによっては、ただのヘンな人じゃないの?」
「うるさいなあ。実体験って、ホントに貴重なものなんだからね!」
「へえ」
「確かに、木賊集落で一人で歩いていた地元のおばあさんに、『貧困旅行記』の写真を見せたら、「あらまあ、なつかしい」と言われたけどね」
「そりゃ、地元でもこんな田舎が本に載ってるなんて思いもしないだろうからね」
「まあ、十年も昔の話だし、いまじゃどうなってるかわからないけどね。またいつか旅心がうずいたら、フラリと行ってみたいなあ」
「ふーん。この本は、そういう実体験のきっかけにもなった、なかなか役に立つ一冊でもあったわけね」
「つげ義春については、まだまだ、書きたいことがあるから、またいつかトピックで書きたいと思ってるよ。いつになるかわからないけど、必ず、取り上げるから。じゃあ、またね!」

「俗物図鑑」(筒井康隆)

「また今年も、ジョニー赤とジョニー黒ですか。もっと何か、変ったお歳暮にしたらどうでしょう」営業庶務の平松礼子が首をかしげてそういった。(略)
営業第二課長の雷門亨介は、目を細めて礼子の顔を眺めた。(美人だし、頭もいい(略)それなのにどうして婚期を逸したのかな(略))
「(略)変ったお歳暮というのは、キミが想像している以上にむずかしいんだ。(略)」
亨介と礼子は第二応接室で二人きりだった。(略)(これはいかん)(略)(あのスカートは彼女の足の長さのため今も尚まくれつつある。いちばん悪いことには、おれが欲情してきた)
「社内ではぼくのことを営業課長とは呼ばない。接待課長と呼んでいる」
「だけどそれは悪口じゃないわ。接待役のむずかしさぐらい、皆、知ってるわよ」
(知るもんか)亨介は思った。(ただ酒を飲めていい身分だぐらいに思ってるんだ)
(略)「そういう課長って、とてもすてき」礼子は熱っぽく亨介を眺めた。
(略)「可愛い子だ」(略)ふたりは唇を重ねあわせた。
(略)ちょうどその頃、風巻機工の社長風巻扇太郎は、(略)社長室に戻った。
(略)盗聴は、風巻扇太郎のひそかな楽しみだった。彼は社内のあちこちに盗聴用マイクを仕掛け、(略)いろんな会話を社長室で盗聴していたのである。
(略)彼はツマミを応接室に設置してあるマイクの波長にあわせた。
(略)「わたし、課長が好きよ」
(略)やがてそのささやきの中に、甘ったるい吐息と切なげな息づかいが混じり始めた。
風巻社長は顔色を変えて立ち上がった。
平松礼子は、風巻扇太郎の情婦だったのである。

「今日は筒井康隆の『俗物図鑑』を紹介するよ!」
「あー知ってる。『時をかける少女』の人だよね!」
「そう、なんでだか若いころに書いた、そのジュブナイル作品が一番有名になってしまってるけど…」
「アニメ映画で見たもん。時間を延々とタイムリープするやつだよね」
「そうだね。細田守監督のあの映画は良く出来てたよね。TVで見たけど、筒井康隆自身も、気に入ってたみたいね。でも原作そのものは、今の目からすると、ホントに当時の子供向けというか、お子様向けで、内容的にも大したことないんだけどね。」
「そう?」
「うん、これと最近の難しい文学的実験作品だけで、筒井康隆を知ったつもりになってほしくはないかな、って思ってるよ。何と言ったって、昔は、大ストーリーテラーの王道をいく、娯楽作家だったんだから」
「ふーん」
「とくに1960年代から70年代前半の作品群は、もう、今の目から見ても無茶苦茶な、日本のいわゆる小説的情緒とかをとことん逸脱した、狂気じみた傑作を次々と発表していったんだよ」
「狂気?」
「そう、『東海道戦争』から始まって、『48億の妄想』、『ベトナム観光公社』『アフリカの爆弾』『ホンキイ・トンク』『心狸学・社怪学』『日本列島七曲り』などの時代ね。もう、常識とか非常識とかを超えて、やりたい放題のムッチャクチャなギャグ作品を連発していったんだよ。それらは、今読むと、当時ほどの衝撃度はないにしても、十分楽しめるし、日本という湿った風土の中から生まれたとは思えないほどの、ストーリーの冴え、スラップスティックの鮮やかさ、もう、読者に笑いを提供する以外のことは全て瑣末事みたいな作劇法は、当時も今も、誰も真似できていないくらいの衝撃度を持っているよね」
「そうなの?」
「うん。直木賞の候補に何度もなりながら、『小説の品位から外れている』という訳の分からない理由で、ことごとく落とされているのも、さもありなんという感じだね。逆に、こんなのが直木賞とったら、作品の品格じたいが疑われる、そんな、賞なんて小さい枠では捕えきれない爆発力と狂騒性があったね」
「ふーん」
「とにかく、ギャグにつぐギャグ、読者に対するサービス精神以外は、そんなもん知ったこっちゃない、みたいな、小説の品位とか人間性とかをとことん無視した、大狂躁作品を次々と生み出していたわけよ。あたしが最初に読んだのは、小学生の時の『48億の妄想』なんだけど、これがもう、そのプロローグからして、狂いまくっていてね…」
「うん」
「本当は『48億の妄想』も、トピックとして取り上げたかったんだけど、それじゃ、このブログが筒井康隆作品だらけになっちゃうから、これだけいっとくね。とにかく、あのプロローグの狂いっぷり、衝撃度は半端じゃない!気になった人は、電子書籍で出てるから、読んでみて!とね」
「ふーん」
「で、70年代後半から、筒井作品は、だんだんにその露悪的な作風から離れて、オーソドックスなウェルメイドともいうべき作品群へ移行していくんだけど、そちらはそちらで本当に面白いんだけど、わたしとしては、初期の頭のネジがぶっ飛んだような奇天烈な作品のほうが好きなわけね。で、この作風の流れの総決算が、今日紹介する『俗物図鑑』なわけ」
「へえ。冒頭に引用した部分からすると、なんか、昔のコメディ劇みたいな感じだけど」
「そう、そこも筒井作品の特色だよね。筒井康隆自身、昔は演劇青年だったし、舞台にも出ているの。そしてその作品はしばしば劇の一幕ものみたいな、人が舞台の袖から現れて騒動をおこしては消え、また別の人物が幕間から登場し…みたいな、きちんとした舞台劇を見ているような構造になっていることが多いのね。それも、読者にとっては、わかりやすく、娯楽ものの王道を歩ませた要因になってるんじゃないかな」
「そうなんだ」
「冒頭の部分は、こう続くのよね。数日後喫茶店で…」

「どうしてわたしだけクビになって、課長はクビにならないの」(略)「不公平だわ」
「まったく申しわけない」礼子が本気で彼に怒っているのではないことは知っていたが、亨介はとりあえず頭を下げて見せた。
(略)(この娘が、(略)結婚してくれなければ訴えると叫んで泣く最近の馬鹿娘のようでなくて助かった)
(略)「実は課長にお願いがあるの。聞いてくださるかしら」
(略)「わたしの兄貴が、(略)ハウ・ツーもの専門の出版社をやってるの。(略)一冊本を書いてみようと思っているのよ」
(略)「君がいったい、どんなハウ・ツーものを書くっていうの」
「ほら、あれよ」(略)「お歳暮、お中元、つまり御贈答品をいかに選ぶかって本よ。(略)手伝ってもらいたいの(略)」
(略)「手伝おう」(略)(この娘に会える機会がふえるものな)
(略)「不思議なのは、あの時どうして社長が(略)入ってきたかということだ」(略)「あの時社長は、不義者見つけたと叫んだが、何が不義なんだろうな」(略)
「さあ」礼子はもじもじした。

「ホントに、劇みたいね」
「そう、舞台劇にしたら、さぞ映えるだろうね。そして、いよいよ礼子のアパートへ入った亨介は、原稿を読んで、」

「面白い」(略)「おそらく売れるだろうね」
「あっ。うれしい」誉め続ける亨介に、礼子がむしゃぶりついてきた。(略)
(あっ。しまったしまった。昨夜は会社の宿直室で寝たのだ。パンツをもう三日替えていない。靴下だって蒸れている。おまけにおれには腋臭もあるのだ)
(略)「ねえ」(略)「ここにはちゃんとベッドがあるのよ」
「う、うん。しかし」(略)(いかん。パンツが汚ない。足が蒸れている。腋臭だ)
礼子はしっかりと、亨介の頭部をかかえこんで叫んだ。「わたし、課長が好きなの。(略)仕事熱心で、頭がよくて、男らしいところが好きなの。靴下が臭くったって、気にすることなかったのよ。腋臭だって平気だったのよ。その方が男らしいわ。(略)」礼子はしゃがみこんで、亨介の靴下を脱がしはじめた。
「まあ、可哀相に、こんなに汚れた靴下をおはきになって。わたしが洗濯してあげるわ。(略)ああ、わたし嬉しいの。(略)こうして課長のお世話をしたかったの。(略)感激だわ。これがわたしの夢だったんですもの」
しばし憮然としていた亨介の胸に、年甲斐もなく熱いものがこみあげてきた。
「ありがとう」そう言ったとたん、涙があふれ出た。(略)彼はわあわあ泣きはじめた。泣きながら礼子の乳房の間に顔を埋めた。「ぼくは二十年間、やさしさに飢えていたんだ。あーんあん。君のような女性にめぐりあえて、ぼくはしあわせだ。あーんあんあん」

「…これ、ホントに、マジメに読んでいっていいの?あーんあんなんて、普通使わないでしょ?」
「もうここらへんから大爆笑ものだよね。普通の小説を書こうなんて意識は、作者がわにはそもそもないんだってことが、よくわかるシーンだよね」
「なんか、最近のラノベものよりふざけてるみたい」
「まさに、それよ。スカしたポーズのラノベ読むより、百倍面白いのよ。それで、話の続きとしては、亨介は、家庭内でも孤立しており、ある時、大学生の息子・豪介に、家をたたきだされるのね。そして折も折、彼のまわりに現れてきたのは、みなそれぞれに奇癖を持ち、それについては自分一人で高度な専門知識を持つ妙ちきりんな人々だった。」
「へえ」


注意・この小説を全くの白紙の状態で存分にお楽しみになられたい方は、ここから先を読まず、本屋さんか、電子書籍で、「俗物図鑑」(新潮文庫)をお求めください。


「まず、部下の小口昭之介。彼は人の口臭から、その人の病気、性格、文明論まで語りつくせる『口臭批評家』といえる知識を持っていた。そして、バーで出会った編集者、片桐。人が吐いた吐瀉物から、その人の年齢、年恰好、性格、職業まで言い当てる逸材。接待で知り合った、関西の中小企業のサラリーマン・本橋は、横領の手口を微細に語れる、横領の常習犯、『横領評論家』だった」
「な?なに?その話。書いた人はどうかしてるんじゃないの?」
「どうかしてようとしてまいと、読者は彼らの語るそれぞれの専門知識、ひいては文明論にまで発展する蘊蓄の多様さにまず圧倒されるわけよ。そして、亨介の勤める会社の社長でもあった風巻扇太郎も、盗聴がばれて、会社を追われ、行き場を失ったこれらの人々と、アパート『梁山泊』で暮らし始める。彼らは、みな、それまでの勤めを辞めて、というか、辞めざるをえなくなって、それぞれの分野の『評論家』として、本や講演で売り出していくことになるのね」
「評論家って…あのねえ」
「亨介は『接待評論家』礼子は『贈答品評論家』小口は『口臭評論家』片桐は『吐瀉物評論家』本橋は『横領評論家』風巻は『盗聴評論家』というぐあいにね」
「そんな職業って、なりたつの?」
「それが、なりたつのよ。マスコミは、これらの、異形の集団を、テレビで面白おかしく紹介し、視聴率を稼ぐ」
「ふうん?」
「しかし、内心ではバカにしきっているから、彼らを笑いものにしようと、いわゆる良識派と呼ばれる文化人と、番組上で対決させていったりして、もりあげるのね」
「うん」
「しかし彼らは、その圧倒的な知識でもって敢然と反論する。すると、良識派は、『こいつらの存在じたいが反社会的だ!けしからん!』と、感情的になってわめきちらすしかなくなるわけね。司会者は、自分では良識派をきどって、そのくせ、胸のうちでは、もっとやれ、視聴率がとれる、と、内心ニヤニヤしながら、たきつけるわけ」

「さあ、信じられるか信じられないか。片桐氏の鑑定眼が本ものかどうか。それではさっそくこのスタジオで、実際にその反吐の鑑定というのをやっていただきましょう」(略)「この反吐を吐いた人物を、この二十人の皆さんの中からえらび出していただくわけであります」
(略)片桐は(略)フラスコを持ちあげ、内容物をガラス越しにしげしげと監察した。
「大分古い反吐だな。吐いたのは誤差一時間で昨夜の二時と鑑定します。ははあ、ずいぶん酒を飲んだものですね。(略)あっ、この玉ねぎのきざみかたは一流のコックだ。この人、お金持ちです。(略)子の人、年齢は五十二、三歳、むろん男性です」
片桐はフラスコの口に鼻孔を近づけ、くんくんと臭いを嗅いだ。
「おええ」
「わおう」
「ははあ、ウイスキーはスコッチ、(略)この人、胃潰瘍になりかかっています。タンパク質が消化されていません。(略)」彼はフラスコを傾け、人さし指で反吐をつつき、その指をぺろりと舐めた。
また、どよめきが起った。「おええ」
(略)「塩酸の量がたいへん多い。(略)職業はええと、喋る機会が非常に多い知識人ですが、冷静さを保ちながら論争するためのストレスがあるようです。ピーナッツの噛み砕きかたが独特だ。この人は検事や判事ではない。あきらかに弁護士です」(略)
「あなただ」(略)
「すごい。あたりました。」

「うん…そうとう狂った世界だね」
「彼らは『梁山泊プロ』という会社を作り、大きな自社ビルを建て、そこを拠点に活躍し、いまだ発見されてない、世の中の、みょうちきりんな奇癖を持った…そして、その一点においては余人を寄せ付けぬ知識量と文明観を併せ持つ人材をスカウトしはじめる…」
「うん」
「そこから小説は、日本中に散らばっていた他の奇癖の持ち主たちがいかにして梁山泊プロにスカウトされるかまでを人物伝ふうに列記していくことになるのね。これがもう、この500ページになんなんとする長編小説のぶっとい幹になっていて、読んでて、あまりの奇天烈さとエネルギーに、読者はもう、笑いと冒険の渦にまきこまれ、苦しいくらいおなか一杯にされてしまうわけよ」
「ううううむ。なんといっていいのやら…」
「それがまた微に入り細に入りで面白いんだよ。体中に疥癬とシラミと田虫をまとわりつかせた、『皮膚病評論家』の老爺、もと孤児で、幼いころ駅のタン壺のなかの人痰をすすって生きてきて、功なり名とげた今もその味が忘れられず、痰壺評論家として人の痰をすすって生きている老人…それらが、テレビに出て、正義派ぶった良識派の主婦たちや文化人に阿鼻叫喚の地獄を見せつけるのね。」

テレビ・カメラの前で老人が衣服を脱ぎ捨て、全身満艦飾の皮膚病、それはすなわち猫疥癬、シラクモ、アトピー性痒疹、嚢尾虫症、フィラリヤ、陰金田虫、ネプト、膺、水虫などでできたカサブタや水泡を開陳するや否やスタジオはたちまち阿鼻叫喚の巷と化し、司会者は毛穴を広げてとんで逃げ、ホステスはひきつけを起すという騒ぎになった。
ずらりと並んでいた視聴者代表の主婦たちが、ここぞとばかりに非難をはじめた。
「こういう伝染性の病気を持った人を出演させるとは何ごとですか」
「帰らせてください。気持ちの悪い」
「何が評論家です」(略)
「テレビ局の良識を疑います」自分たちを出演させることは良識だと思っている。
(略)虫右衛門老は(略)怒り狂ってあばれはじめた。
「(略)全員、皮膚病を公平に感染してやるから消えうせろ」
悲鳴をあげて逃げまどう彼女たちを片っぱしから抱きすくめ、追いまわした。もちろん、とめようとする勇気のある人間などひとりもいないから、あばれ放題である。スタジオは失神する者続出で、ついには収拾のつかぬ大混乱に陥った。

「もう、無茶苦茶ね」
「そう、こんな話が世の中にあっていいのか、と、思うような、大暴走小説だよね。ついには、梁山泊プロは、日本の良識派、警察、政府全体を敵にまわし、マスコミも総がかりで盛り上げ、一大決戦をくりひろげることになるんだよ」
「えっ。そんなスケールのでかい話になるの?」
「そう、もとはと言えば、もと放火魔の女を『火事評論家』、自殺志願者で爆弾製造のプロ『爆弾評論家』なんかを迎え入れたことに端を発しているんだけど、要は、マスコミというか、一般大衆にとっては、梁山泊の騒ぎを、悪いやつらがいるから、死ぬまでぶったたけ、という、快楽…それを渇望している、その対象として必要としていた、という構図になるわけ」
「ひええ」
「そこらへんのことは、梁山泊側にもわかってるから、人質をとったり、たてこもったりして、マスコミの飢えた欲望につきあってやるのね。マスコミは、表向きは梁山泊を批難しながら、裏では支援したりして、ずるがしこいの」
「ふうん?」
「でもマスコミの本音は、容赦なく梁山泊側を追い詰めてくるのね」

「さあ、いよいよ警察対梁山泊の決戦が近づいてまいりました。面白くなって、いや、もとえ、大変なことになってまいりました。」

「と、表ではがなりたてるも、梁山泊プロに極秘裡に接触してきた記者の代表は」

「(略)今まで以上に刺激的で、煽情的で、そして奇想天外な事件を起こしていただきたいのです。(略)刺激に飢えた大衆の潜在的サディズムをさえふるえあがらせるような残虐性と、本ものの気ちがいさえ思いつかぬような狂気を兼ねそなえた大事件を起していただきたい。これが、マスコミからの、(略)全マスコミからの要望です。(略)」

「梁山泊プロ側は、その期待どおりのことをやってやろうじゃないか、と、政府、警察、軍隊との一大決戦に臨むわけね。自分たちがマスコミ大衆の、いいおもちゃに利用されてると知りながら、それならそれでいいじゃないか、面白ければ、という、ぎりぎりの反骨?精神でのぞむわけ。アウトラインはこんな感じだけど、どう?こういう話は」
「うーん…風刺なんだか何なんだか…」
「これを単なる風刺と言っちゃうと、言ったその口の先から、もう、作者のいう、俗物と同じになっちゃうのよね。登場人物たちも、自分たちも俗物にすぎないと承知しながら、そんなら俗物の期待に応えてやろうじゃないか、命を賭してやろうじゃないかと戦いの中に身を投じていくわけだからね。この作品は、批判や批評をよせつけない力を持った、うっかり常識とやらで批評しようものなら、作中で批判されたマスコミと同じになってしまうような、複雑な構成を持った作品なんだよ」
「ううううん」
「作者は、そういう世間の俗物性も、自分の俗物性も、きっちり観察していて、そんならそれで面白がってやろうじゃないの、という姿勢なんだとおもうな。でも、こういう得体の知れないテーマを、みごとに娯楽に書ききった筒井康隆は、偉いと思うね。明らかに『水滸伝』が元ネタになっているんだけど、そこに、筒井流スラップスティックの狂躁感と高揚感をミックスして、一大スペクタクルにしあげた大傑作だと、思うね。」
「うう」
「最後あたりのシーンなんて、もう、それまで積み上げてきたものの最後のきらめきが、抒情的に繰り広げられてきて、感動して、涙がでるくらいの圧倒的な迫力で迫って来るよ。本当は、いままで話したような、そんな予備知識なしで、この、豊かな物語世界に、どっぷりと身をゆだねて、この大傑作の真髄を味わってほしいんだけどね、もちろん知ったうえでも、十分楽しめると思うよ。筒井康隆については、また別の作品でもトピックを立てる予定だから、その時また語るね。じゃあ、またね!」