「今日は、我孫子武丸の『8の殺人』を紹介するよ!」
「へえ。また推理小説?薄い本だねえ」
「うん、これは、文章も平明だし、サクサク話が進むし、いままで紹介してきた本のなかでも最も読みやすい一冊かもしれない。そこが食い足りないって人もいるだろうけど、小難しく書けばいい推理小説になるってわけじゃないからね」
「あれ?なんで三冊もあるの?」
「これはね、速水三兄妹シリーズといって…我孫子武丸が生み出した名探偵シリーズの連作と言ってもいい三冊なんだよ。どれも面白くて、三冊全部おススメなんだ」
「ふうん」
「あと、これは、ユーモア・ミステリーに区分されるんだろうけど、この三作のユーモアというか、ギャグは度を超していてね。ほとんどドタバタに近いようなシーンがふんだんに盛り込まれてるんだよ」
「へえ」
「初めて読んだときは、こんなふざけた、ギャグ満載の推理小説があるなんて!ギャグと怪奇推理との超絶な融合!と感動したものなんだよ。まあ、今読み返してみると、昨今、この系統のものは珍しくなくなってるから、衝撃度としては、他と比べてダントツにとはいかなくなってきてるけどね…」
「うん」
「それでも十分面白い!特に、推理小説をこれから読もうとしている若い人には、うってつけの本だね!『8の殺人』『0の殺人』『メビウスの殺人』の三冊が出てるから、一冊じゃ食い足りないって人には、三冊全部読んでほしいな。まあ、といっても、短い推理小説だから、小粒なところもあるとも言えるし、ここでおすすめの対象に選ぶというのも、この三冊全部ひっくるめての評価ということにしてほしいな」
「ふーん」
「この話は、こんな、犯人のモノローグから始まるのね。都内のある場所に、奇妙な建物が建っていた。8の字屋敷、と呼ばれるその屋敷は、全体が上空から見ると、8の字を描くように、部屋が配置されていた。ふたつの中庭を囲み、渡り廊下がふたつの円を描くように配置されている…」
この屋敷がわたしに、あるトリックを思いつかせたのだった。いや、思いついたというより、それは私に発見されるのを待っていたのかもしれない。(略)ただ私はこの美しい計画を実行するだけだ。(略)無実の人間を犯人に仕立て上げることについては、多少の罪悪感を覚えないでもなかったが、これもひとつの芸術と考えれば、彼もきっと分かってくれるだろう。
「この屋敷に住んでいるのは、建設会社の社長一家、創業者の老人、その息子夫婦、その書生、小間使い一家、という人々だった。十月のある夜、事件は起きた…」
「うん」
「夜中、奇妙な電話で起こされた、創業者の息子であり、現社長の蜂須賀菊一郎は、電話の指示どおり、三階の渡り廊下へおもむく…おりしも、娘の雪絵と秘書の河村美津子が、雪絵の寝室で、二人とも眠れず、起きてココアを飲んでいた。そこへ…」
「うん」
「二人は、渡り廊下に、誰かが歩いている足音を聞くのね。カーテンを開けてみると、菊一郎が、中庭の向こうに、立っているのが見えた…そして、使用人の矢部雄作の部屋の窓辺に、ボウガンを構える人影が見えた。ボウガンは発射され、その矢は菊一郎の胸をふかぶかと貫いた…」
「うんうん」
「そのあと二人は、正体のわからない人間に殴られて、気を失ってしまうのね。あとに残されたのは、ボウガンの矢で斬殺された菊一郎の死体と、理由はわからないが、死体をひきずった跡だけだった」
「うん」
「事件発生の翌朝、警視庁から派遣されたのは、速水恭三、三十五歳の刑事、独身。この刑事が主人公なのね。ドジな刑事で惚れっぽい所もある恭三は、現場で出会った雪絵の美しさに一目ぼれしてしまう。勇躍し、第一容疑者の矢野雄作を逮捕しようとするが…」
「(略)君は事件のあったとき、鍵を掛けた部屋の中にいた。君は寝ていたというが、それは嘘だ。君が菊一郎氏を殺し、それを目撃した河村美津子さんと蜂須賀雪絵さんを襲ったんだからね」
(略)「違う!僕じゃない!どうして僕が殺したと…」
「矢野雄作は警察に拘束される。これで、事件は一件落着かに見えた。しかし、速水恭三は、腑に落ちないものを感じた。」
「何か妙なんだな」
と、速水慎二の入れてくれたコーヒーを飲みながら、恭三は呟いた。
夕刻、弟である慎二の経営する喫茶店『サニーサイドアップ』に立ち寄ってのことである。
「この速水慎二という弟と、その下の妹の大学生、速水いちおが、大の推理小説マニアで、不可解な事件があると、彼らの好奇心は爆発し、恭三にさまざまなヒントをあたえてくれるのだった。この凸凹三姉妹のやりとりが、読んでて、楽しいんだよね。」
「雄作が犯人としてだな。自分のボウガンで自分の部屋から人を殺しておいて、いけしゃあしゃあと、鍵を掛けて寝てましたなんて言うと思うか?」
「目撃者がいたとは思わなかったのかもよ…あ、そうか」
(略)「そうなんだ。犯人は目撃されたことを知ってるはずなんだ。二人の目撃者を襲ってるんだからな。これもよく分からんのだ。犯行を見られたからにしては、ただ殴って気絶させるだけってのは変だろう?口封じに殺すか、殺すのが嫌なら、普通逃げ出すもんだがねえ」
(略)「それより僕は、死体が少しだけ動かされたってことのほうが気になるなあ」
「だからそれは死体を隠そうとして、諦めたんじゃないかって…」
「目撃者が二人もいるのに、隠してどうなるっていうの?(略)」
「ここから会話は、古今東西の推理小説のトリックを披歴して、不可能殺人談義になるのね。この部分が、また、面白いんだよ。一方、現実の捜査では、屋敷内の、一癖も二癖もある怪しい人物たちへの聞き込みが行なわれていた…。創業者の蜂須賀菊雄老人、その妻、民子、被害者の妻である節子夫人、被害者弟で遊び人の菊二、秘書で腺病質な佐伯、など…彼等には、夜中ということもあり、ほぼ全員が寝ていたと証言し、そのアリバイを証明するものはいない…」
「うん」
「いったんは雄作犯人説で終息したかに見えるこの事件に疑問を抱いていた速水恭三は、聞き込みのうちに、何か怪しい予感を感じる。果たして、第三者が雄作の部屋に侵入し、ボウガンを撃つことが可能だったか?速水は、推理をめぐらせる…。その中で、相棒の若い刑事、木下が…」
「(略)窓から窓へ飛び移れないかな、と思ったんですが―」
窓から窓へ飛び移れるなら、隣の空き部屋からこの雄作の部屋へ、窓から侵入することができる。
「なるほど…。やってみろ」
若い刑事は。信じられない、といった顔で恭三を振り返った。
「さ、三階ですよ、ここ?―へたすりゃあの世行きってことだって…」
恭三は笑い飛ばした。
「頭から落ちなきゃ大丈夫さ(略)」
木下は猫のように襟を掴まれ、窓外に押し出されてしまった。
「け、警部補、しっかり持っててくださいよ。僕まだ六十年は生きるつもりですからね。もし死んだら、警部補が死ぬまで祟りますよ、ほんとですよ。冗談じゃないですよ」
(略)「弱音を吐くな!そんなことでこの先警官が務まると思ってるのか!」
恭三は勝手なことを言っている。
「いいです、もう!田舎に帰って、乾物屋を継ぎます!」
「やかましい!早くしないと俺が突き落とすぞ!」
(略)「ど、どうしましょう、これから?」
「向こうの窓を開けて飛び込め」
(略)その時、恭三はあることを思い出したが、一瞬遅かった。足を滑らせた木下は、呪いの言葉を吐きながら落下していった。
「あああ!祟ってやるうううう!」
「木下あ!悪い!そこの窓、鍵閉まってたんだ!」
「こうしたドタバタ騒ぎのなかでも、怪しい人物が浮かび上がっては、消えていく…。そして、速水警部補と木下刑事が屋敷に泊まりこんだ或る夜、第二の殺人が行なわれた…。被害者は河村美津子。しかも、現場はオートロックされた完全な密室だった。彼女は、ボウガンで体を貫かれ、ドアに磔にされていた。矢の方角からいって、ボウガンは、中庭の空中から発射されたとしか思えない。しかし、そんな事があるのだろうか?そして、まさに、その夜、二階の窓の外を浮遊する、ボウガンの姿が、母親の民子によって目撃されていた…」
「うん」
「その夜廊下は、完全に二人の刑事によって監視されていたのね。にもかかわらず、殺人は行われた。本当に、中空を舞う不思議なボウガンによって、殺人は行われたのか…」
ボウガンが勝手に飛び回って河村美津子を殺したとでもいうのだろうか?
(略)「悲鳴を聞いて俺が駆け付けるまで、ほんの数秒だ。多目に見て十秒にしてもいい。たった十秒の間に、美津子の部屋の窓から外へ出て、自分の部屋に戻る方法などあると思うかね?(略)」
「(略)犯人は一体どうやって三階の窓を出入りしたんです?屋上からロープで侵入したとでも?」
「屋上からねえ…なるほど」
恭三は、(略)ちらりと隣の木下を見る。
木下はその視線を敏感に感じ取ったのか、ずぐに青い顔をして震え出した。
「い、嫌だ。警部補…もう嫌です」
「俺は何も言ってないよ」
(略)「その目つき…あの時と一緒だ。今度も僕にやらせるつもりなんだ。言っときますけどね、僕はまだ怪我人なんですよ?その僕にまた―」
「俺はまだ何も―」
「いーや!どうせ僕にやらせようとしてるに決まってる。(略)『木下、お前のほうが体重が軽い』って言うんでしょう?」
「良く分かったな。…まあ、そういうわけだ。一つ、屋根に登ってくれるな?」
(略)彼らが叫び声を聴いたのは、ロープの端が屋上から消えてからのことだった。
「やっぱりー!僕の予感は正しかったあああああ…」
ドップラー効果で少しずつ低くなる木下の悲鳴を聞きながら、恭三は木下が落下中であることに気付いた。
(略)木下は両手、両手首の骨を折って、入院することになった。
「屋上からのボウガン発射が不可能ということは、屋上に通じるドアに鍵がかかっていたことからも証明された。また、河村美津子の体に、矢が水平に刺さっていたことからしても、中庭の三階の中空からボウガンの矢が発射されたとした考えられない。そんなことが現実としてありうるのだろうか…。」
「うん」
「恭三は、詳細を弟の慎二と妹のいちおに話聞かせる。すると、いちおは、この殺人のトリックがわかった、という。」
「へえ」
「そして、それを証明するために、自分たちを犯行現場の屋敷に連れて行ってくれ、警察も家族も交えた衆人をそろえたなかで実演してみせる!と、大見栄を切るのね」
「うん」
「それからの推理合戦の面白さ、その推理がさまざまな角度から否定されては、また新たな推理を弟が披歴し、犯人像も二転三転する…そして、最後に、あまりにも異常なトリックと犯人があかされる…と、こういう話なのね」
「ふーん。読んでみたくなったな」
「密室の謎、夜中に空中を浮遊するボウガンの謎…果たして速水兄妹は、二転三転する推理合戦の果てに、犯人の狡知にたけた犯罪計画に勝てるのか?最初にも言ったけど、本当に文章も無駄がなくて、簡潔でさらさらと読みやすくて、面白いから。まあ、文章にぺダントリックな効果を期待している向きには、あまりにさらっとしすぎている、と思われるかもしれないけどね。そういう趣味の人以外には、こちらのほうが、純粋に楽しいお話として、いい語り口じゃないかな、と思ってるよ」
「そうだね。やたらおどろおどろしい、息の詰まるような文体はあたしも好みじゃないからなあ」
「まあ、わざとそういう文体で、読者をけむにまく、という手法も推理小説の手法のひとつではあるんだけどね。この本は、そういうものとは無縁に、本当にシンプルな仕掛けだけで勝負しているから、誰にでもすすめられるよ。もちろん、ギャグもふんだんに入ってるしね」
「そうだね。なんか、ふざけすぎみたいな感じもあるけどね」
「このシリーズ、三冊出てるんだけど、長らく、電子書籍では、『8の殺人』だけしか出てなかったんだよね。それが、今年の8月になって、第三作の『メビウスの殺人』が加わったんだよ。こちらは、アガサ・クリスティの『ABC殺人事件』に似た構造を持つ、連続殺人が取り上げられてるね。おなじみの速水三兄妹が、殺人鬼を敵にまわして活躍する話なんだよ。かわいそうな木下刑事もまた登場してヒドイ目にあうのもお約束だよね」
「そうなんだ」
「のこりの『0の殺人』も、早く電子化してほしいな。作者は、この三作品以降、シリアスな推理ものに作風を変化させていくんだけど、また初期のこの作品みたいなドタバタも書いてほしいな。できればまた速水三兄妹でね。じゃあ、またね!」