「野望 信濃戦雲録第一部」(井沢元彦)

「今回は、井沢元彦の『野望』を取り上げるよ!」
「ずいぶんぶ厚い文庫本だね。しかも上下巻に分かれてるし」
「そう、合計すると、1500ページくらいあるかな」
「えー、なんか、読むのかったるそう」
「そんなことないって。作者が作者だからね」
「井沢元彦…確か、前に取り上げた『猿丸幻視行』を書いた人だね」
「そう、最近は、歴史に関するエッセイ集を数多く出してるけど、初期は、推理小説や、この本のような時代小説も書いていたんだよ。そして、それが、めっぽう面白いの!」
「へえ」
「最近出してる歴史の本は、あくまで史実を書いているから、そんな突拍子もないものは書けないけど、小説となると、話は違うのよね。胸のすくような英雄檀、超破天荒な謀略談、もう、娯楽ものに徹した奇々怪々のストーリーが書けるわけだね」
「ふーん」
「そして、何といっても、この人の書く時代小説は、どれも超ド級の面白さなの!図抜けてるのよね。ある意味昔の剣豪小説に近い、カラッとした明朗さと、スピード感あるストーリー展開が、読者の心をわしづかみにして、離さないわけだよね」
「うん」
「そして、この作品では、もう、数ページごとに、曽呂利新左衛門ばりの謎かけや、あっと驚くような種明かしが交互に表れてくるんだよ。もう、パズル小説を読む快感ってものを、限りなく、ふんだんに味わわせてくれる、井沢流時代小説の頂点とも言える作品だね!」
「へえ、それは、どんなものなの?」
「まず、戦国の世、天文11年の、信濃の国、諏訪郡の、お姫様の話から始まるのね。諏訪神社を擁するこの国の、高貴さと美貌を兼ねそなえた、天女のような美沙姫は、その優美さから、領民のあつい信仰心の象徴となっていた…。姫は、その年も、諏訪湖の氷のひび割れを見聞し、運勢を占う御神渡りという吉凶占いの儀式に臨んでいた。姫を崇拝する、近習の望月誠之助と共に。しかし、神官の告げた予言は、「凶」であった…。」
「うん」
「誰もが考えもしなかった結果だった。諏訪家は、この所平和な日々を過ごしており、隣国の武田家とも、婚儀で結ばれてる間柄だったから。」
「うん」
「その頃、その、まだ甲斐の国の、わずか15万石の領主にすぎなかった武田晴信(のちの信玄)のもとを、山本勘助という片目で片足がびっこを引いた老武者が訪れた…ここから、全てが始まるのね」

「勘助、その方、何ができるのだ」(略)
「軍師でござる」
(略)「軍師とはよう言うた。だが、勘助、天か六十余集に大名土豪数あれど、軍師など置く家は一つもないはず」
(略)「武田家が本邦初の軍師役を置かれませい(略)武田家をどのような身代に育て上げるおつもりか」
「知れたこと、近隣諸国を武田の旗の下にひれ伏せさせ、天下有数の大名にするのよ」
「あっははは(略)望みがあまりにも小そうござる。」(略)
晴信は満面に朱を注いだ。(略)
「さればそちの存念を申してみよ」
「天下を取り、武田幕府を開く、殿には将軍になって頂く。これでござるな」(略)
あまりのことに晴信は一瞬言葉を失った。天下を取るなど、月へ行くこと以上に現実感のないことである。(略)
「そのようにお疑いなら、勘助が天下取りの計略をお聞かせ致そうか」
「おう、言うてみい」
勘助は姿勢を正して、
「(略)まず信濃を併呑することでござる。(略)信濃と甲斐、この二国を併せ持ち、力を蓄えつつ美濃から尾張へ進出いたす。海道へ出てしまえば、後は京へ一筋道、殿は源氏の嫡流でござるゆえ将軍宣下をお受けになるのに何の障害もござらぬ」
「―たかだか十五万石の当家が、まことに天下の主となれると思っているのか」
晴信は冷ややかに浴びせた。
「はて十五万石とは面用な。甲斐の草高は二十二万石はござろう」
勘助はにやにや笑いながら言った。
(この男、単なる法螺吹きではない)
晴信はその一言で勘助を見直した。(略)勘助の言う通り二十二万石なのだ。いわば現実の確かな認識が戦略の基礎にある。

「武田家が信濃を攻めあぐねているのは、そこには諏訪家という、諏訪神社の神官を兼ねる一族が居ることによるものだった。うかつに手を出せは、「神敵」となり、領民全体の組織的反抗に会うおそれがあるからだった」

晴信はまさかと思いながらも、聞かずにはいられなかった。諏訪氏を滅ぼし、しかも諏訪の民の反抗は受けないで済む、そんなうまい方法があればとうに実行している。

「勘助は、今の諏訪家当主の妻が、晴信の妹であることに目をつけ、」

「生まれる和子は、(略)武田の血を引く者、その御方を諏訪の跡取りとなされませ」
(略)(こやつ、一体何を考えているのか)
(略)多弁だった勘助が、急に口を閉ざした。言うべきは言った。後は自分で悟れというのだろう。
(小面憎い奴)
これまで晴信は自分より知恵のある男を見たことがない。(略)
その時突然、晴信は勘助の言わんとするところに気付いた。それは晴信の心胆を寒からしめるほどの、冷酷無惨な策略だった。
「勘助、そちは希代の大悪じゃな」

「勘助の言わんとするところは、こうだった。子が生まれれば、父親である当主の諏訪頼重を滅ぼし、武田がその子供を当主に祭り上げ、実質的な支配者となる…しかし、この策には、問題があった」

「勘助ー」
「どのような名目で兵を挙げるか、でござるな」
(略)なんといっても妹婿を、それも和平の約束を踏みにじって討つのだ。何か大義名分がなければ。
「高遠殿によしみを通ぜられませ」(略)
晴信は舌を巻いた。この男どこまで悪知恵がはたらくのか」

「高遠頼継は、諏訪家の傍流、その男に本家の座を用意してやると持ち掛け、反乱を起こす。あくまで諏訪家の内紛と言う形で。武田家は、当主の命を奪い、その息子を傀儡の諏訪の領主とする…。」
「うん」
「しかし、疑り深い高遠に寝返りを決意させるには、相当の知略が必要だった。山本勘助は、供の若侍と共に、単身で高遠の屋敷へ乗り込む。ここで、うまく誘いに乗せなければ、命が危ない、という、一種の賭けだった」
「うん」
「それを、勘助は、あっと驚くような弁舌と策略の冴えで、交渉をなしとげるんだよね。そして、諏訪の城攻めに当たっても…」

「殿、拙者にお任せくだされば、その城、百の手勢で落としてご覧に入れまする」
(略)「だが、百人で城が落とせるのか」
「百人だからこそ落とせるのでございます。そればかりではございません。禰々様(信玄の妹)も寅王様(その息子)もお救いいたし、諏訪衆の恨みを残さぬように頼重様のお命を頂戴致します」
「ははは、そのようなことができれば誰も苦労はせぬわ」
晴信は笑ったが、勘助はあくまでも生真面目な態度を崩さない。(略)
「恨みを買わぬための策はござる」
「ほう、あるなら申してみよ」
「頼重様を二度殺すのでござる」
(略)敵は一千、しかも籠城しているのである。

「そして…」

(まるで魔法のようだ)
(略)まさに一兵も損することなく、百の手勢で一千の守兵を駆逐し、上原城は陥落したのである。

「勘助は、見事にやってのけたのね」
「どうやって?」
「それは、本を読んでのお楽しみね。二度殺す、の意味も、その時明らかにされる。まさに鬼人をもあざむくような奸計によって、勘助はそれをなしとげるわけよ」
「またあ」
「そして、用済みになった頼継をも、わざと空き家同然にしておいた城に攻め込まさせ、不意をついて討伐する…こうして、武田家の信濃攻略の権謀術数にいろどられた、華麗なる進撃が始まるわけね」
「うん」
「いっぽう、乗っ取られた諏訪家の姫は、信玄に捕らえられ、側女の地位に落とされ、近習であった望月誠之助は、脱走して、諸国を放浪して、信玄と戦う大名に転々と奉公し、打倒信玄に人生を賭けるのね。このせめぎあいが、お話の大きな、流れになっていくわけよ」
「ふーん」
「でも何といっても圧巻なのは、山本勘助の謀略の鮮やかさ、そして、その種明かしのアッと驚くような用意周到さ、それがこの長編のほぼ全部を占めているんだよね。まるで、シャーロックホームズの謎ときみたいにね。もう、数ページごとに、うーん、と、うならされるような名場面、の連続なんだよ」
「へえ」
「そして、それに対抗する武将たちの中にも知恵者がいて、さまざまな策略を掛けてくる…。知恵と知恵、謀略と謀略のぶつかりあいね。同じ信濃の村上義清は…」

(雪こそ、大きな武器になる)
義清は確信していた。
(略)「わしが真田(信玄の家来)を成敗するという噂を広めよ。(略)晴信は、雪が怖くて出てこれまい。―わしがそのように豪語していたと伝えてやるのだ」
(略)「殿、わざわざこちらから攻めるのを知らせてやるのでございますか」(略)
「そうだ。晴信をおびき出す手だ」
「かかりましょうか」
(略)「人間得意の絶頂の時には、簡単に騙されるものだ。まあ、見ていろ」

「信玄は激昂し、八千の兵を率いて村上攻めを決行する。折悪しく、勘助は、種ケ島購入の所用のためため不在だった。信玄を止めるものはいなかった。兵は、八千対村上勢は四千。楽に勝てるはずだった。ところが…」

晴信がようやく気が付いた時は遅かった。(略)
それは、敵をおびき寄せるための囮だったのである。(略)偽の本陣に突っ込んだ時、すかさず本体を側面から入れて、武田軍の全部と後部を遮断した。この結果、板垣隊は敵中に完全に孤立した。
「雑兵には目をくれるな。信方を討て」
義清は声をはりあげた。先鋒であり武田随一の猛将板垣信方を討ち取れば、相手に与える打撃は限りなく大きい。
(略)「板垣駿河守様、お討ち死に!」
(略)晴信は、信じられないように何度も首を振った。
(略)一方、義清は全軍に次のように命じた。
「相手になるな。敵をいなすのだ。押してくれば引き、引かば押せ。敵を戦場にくぎ付けにせよ。そうすれば必ず勝てる」
(略)さらに一刻が過ぎた。武田兵の動きが目に見えて鈍ってきた。寒さと空腹で体が動かなくなってきたのだ。義清はその機を逃さず全軍に突撃を命じた。
「晴信、命は貰った」
大将自ら馬に乗り、村上勢は一気に勝負をかけた。
まさに怒涛のように、村上勢は武田の本陣に向かって突進した。
(略)晴信が敗死を覚悟した瞬間…(略)

「詳しくは伏せるけど、思いがけない展開で晴信は九死に一生を得るんだよね」
「うん」
「この戦いには、かつて諏訪の姫を奪い取られた望月誠之助も信玄の敵として登場してくるんだよ。それ以降も、帰国した山本勘助の助けもあり、近隣の諸大名を併呑していくのね。次々と現れる、知略に長じた諸大名たち…。北条氏康、今川義元…そこでも、謀略に次つぐ謀略、心理戦の駆け引きが、間断無く、次から次へと、立ちはだかる難題、それに鬼人の如き智略で挑む勘助…それが、ものすごい数百ページに及びボリュームたっぷりで描かれる…勘助の、そして信玄の戦い。そして、最大の敵が現れる…。その名は、越後の上杉謙信。正義を重んじ、決して金品や名誉に動かされない、戦国大名には異色の高潔な男だった…。」

「およそ兵法と申すは、すべて人を欺く術でございます。人を欺いてまで勝ちを得ようとは、拙者、露も思ってはおりません」

「彼は義に生きる男だったのね。そして、勘助の策に対抗しうる知略の持ち主でもあった…そして、信玄が領地を広げるにしたがって、両者の激突は避けられないものとなっていった…。信玄と勘助対謙信という、知恵と知恵のぶつかり合いが始まる」
「うん」
「この駆け引きも手に汗をにぎるものがあってね。」

(略)勘助は天地が引っ繰り返るほどの衝撃を受けた。
(略)生涯を通じて初めて、敵に完全に策を読まれたのである。
(長尾景虎、恐るべき奴)

「いよいよ、山本勘助でさえ、知略に敗れ、絶対絶命の危機におちいる…世にいう川中島の戦いで、最前線にいた信玄と勘助は…」

(おかしい)
(略)勘助はまだ政虎(註・謙信)が妻女山にいると信じていた。
しかし、次の瞬間その信念はものの見事に打ち砕かれた。うっすらと霧が晴れた目と鼻の先に、数千の軍勢が浮かび上がったのである。中央に「龍」と「毘」の旗がある。勘助は心臓をわし掴みにされたような衝撃を受けた。
(政虎!)
(略)「勘助、まんまと裏をかかれたのう」
(略)「面目ござらぬ。この勘助、一生の不覚」
(略)霧が晴れた。ついに戦いの火蓋は切られた。

「そして、勘助は命をかけて最後の戦いにおもむく。謙信は、意表をついて、当時の常識では考えられない戦法、大将自らただの一騎で、信玄の本陣へ突進する。ついに、両者は、合間見え、刃を交え、激突したー」
「うん」
「と、こんな筋なのね」
「いつも、いいとこで終わるんだからあ」
「だって、この場は、これから読む人に、最低限のあらすじだけ紹介して、肝心なところは、読んでのお楽しみにしておかないと、いけないでしょ?」
「それはそうだけどさあ」
「まあとにかく、この『野望』は、めったにない面白本だから、自信をもっておススメするね。ちょっと長いけど、あと、とても素晴らしい特徴があるんだよ」
「なに?」
「それは、文章が簡潔なところなんだよ。井沢元彦の小説はいつもそうだけど、余計な、風景描写とか、情緒的な感情描写とかが一切なく、そぎ落とされてて、あれよあれよという間に、行動と論理、ロジックのみの超速展開で全体が描出されているんだよね。だから、読む人は、オハナシの筋のエッセンスだけを、バシバシ、ストレートに頭に、スピード感をもって叩き込まれるってわけよ」
「ふーん」
「この本も、上下巻になってるけど、並の小説みたいに描写がくどいと、この二倍の分量になってたんじゃないかな」
「へえ」
「まあ、人によっては、ト書きつきのシナリオみたいで物足りない、と見る人もいるかも知れないけどね。あたしは、どっちかって言うと、この簡潔さのほうが好みかな。山本周五郎的な、情緒たっぷりの時代小説とは、ハナから違う、血沸き肉躍る根っからの講談小説とみればいいんじゃないかな」
「ふーん」
「読んでいて、こう思ったな。シナリオならシナリオでいいじゃない。例えば、黒澤明の『隠し砦の三悪人』『影武者』なんかは、面白いけど、シナリオという形になると、筋だけが簡潔に記されていて、ちょうどこの作品と似たようなものになるんじゃないか、ってね。映画の場合、情景描写は映像によってなされるからね。そして、逆にこの作品を映像や情景付きで映画化してたら、とてつもない面白さになる、それだけの骨格を持った作品だと思ったね」
「うん」
「まあ、史実をもとにして書いてあるから、オリジナリティという点では、大いに現実を参考にしている点は、あるけどね…。新田次郎の『武田信玄』も、読んでないし、そこらへんはよく分かんないんだけど…」
「うん」
「ただ、そうした先行の小説では、信玄を正義の側の人間として描かれてるのに対し、こちらは、徹底した悪、ダークヒーローとして描いた点が、大きく違うんじゃないかな。そして、何度も言うようだけど、とにかく数百ページに渡るロジックの戦いの面白さだよね。推理作家でもあった井沢元彦ならではの、冴えだよね」
「そうなんだ」
「この井沢元彦は、他にも、超絶面白い時代小説を書いていてね…。短編集では、『暗鬼』『明智光秀の密書』、長編だと、『日本史の反逆者~小説・壬申の乱』『銀魔伝』なんかがおススメかな。どれも、いまどき、こんな、どストレートに面白さだけを追求した作品があるのか、と、いった驚きを与えてくれるよ」
「ふーん」
「ちなみにこの作品には、後日談があってね。『覇者』上下巻と、『驕奢の宴』上下巻というのが、祥伝社文庫から出ているよ。こちらも面白いけど、まあ第一作目の『野望』が、何といっても一番面白いね」
「そう」
「山本勘助ってのは、後世の史談家の創作であって、実在の人物じゃないんじゃないか、という説もあるけど、井沢元彦は、小説家としての空想を無限大にふくらませて、ものすごい魅力ある名参謀として、縦横無尽に活躍させているね。これも、小説というジャンルの魅力かな」
「そうなんだ」
「とにかく、長い小説だけど、読み始めたら、え、次どうなるの?どうなるの?と、頁を繰る手が止まらなくなるよね。数晩は徹夜してしまうんじゃないかな。歴史小説なんてかったるい、と、思ってる人にも、自信をもっておススメできる作品だよ。ぜひ読んでみてね。じゃあ、またね!」

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