「思索紀行」(立花隆)

「今日は、立花隆の『思索紀行』を紹介するよ!」
「ふーん。なにそれ?旅行の本?」
「まあ、そうなんだけど、そんじょそこいらの旅行記の数倍は面白い、ワクワク感満載の本なんだよ!」
「へえ。なんか、付箋がいっぱい貼ってあるね」
「とにかく、この本を読みだしたら、あっ、ここは紹介したい、ここも紹介したい、と、そんな、面白いエピソードが満載で、付箋を貼り出したら、もう、とめどもなくなっちゃったんだよね。この本一冊で五冊分くらいの読み応えがあるんじゃないかな」
「へえ。立花隆って、聞いたことがあるね。確か、テレビに出てた人じゃない?」
「そう、NHKスペシャルなんかで、医学の話やら臨死体験の話やら、取材班と一体となって、世の中のさまざまな、興味深い事象に取り組んでる人ね。若い頃は、『田中角栄研究』なんかで、大センセーションを引き起こした、ジャーナリストの大物なんだよ」
「ふーん」
「それも、本人は、そんなセンセーションを引き起こす目的で書いたんじゃなくて、ただただ、好奇心のおもむくままに調査をすすめていった結果がそうなった、という感じでね…。とにかく、世の中の、この人が感じる本質というものに、くらいついたら、納得するまで離さず、暴き倒すという情熱を持ってる人なのね」
「へえ」
「だから、著作も多岐にわたるんだよね。政治についての本もあり、化学についてもあり、宇宙、歴史、音楽…と、知りたい、触れたいというとめどもない知識欲のおもむくままに、調べ倒し、取材したおし、その過程を、本にしていく、という、エネルギッシュな人だよね」
「ふーん」
「で、この人の論理の誘導に乗って、知識ゼロのあたしたちでも、化学方面や政治についての専門的な最先端の知の世界を垣間見ることができるわけよ。とにかく、ドしろうとの段階から、説明してくれるし、その道の、たとえば科学の専門家たちに、根本から取材してくれるから、すごくわかりやすいのね。マスコミ内では『知の巨人』と呼ばれたりしてるけど…」
「うん」
「この言い方は、ちょっと反発を招いているところもあるよね。別にこの人が新たな学問の発見をしたわけじゃないんだから、『知の案内人』『知の解説役』と言うふうにいったほうがいいんじゃないかな」
「ふーん。で、この本は、その偉い人が書いた旅行記なの?」
「そうだね。この人の書いた本のなかでは、珍しく、自分の旅の記録を書いた本だね。いままで、取材した政治や科学の本は数多く書いてるけど、旅行記って、書いてこなかったんだよね」
「そうなの?」
「うん。自分の事より、まず、面白そうな事案について、取材しまくって、その過程や成果を表わすということに情熱をかたむけてきた人だからね。この旅行記なんてのは、この人の本のなかでも、かなり異色なものに入るのかもしれない」
「ふーん」
「出版社も、書籍情報社という、あんまり聞いたことのない所だしね…。あんまり、売れなかったんじゃないかなあ。でも、あたしは、読み始めたが最後、止まらなくなっちゃったほどの面白さを感じたんだけどね」
「うん」
「それに、この人はものすごい読書家としても知られているんだよ。蔵書はゆうに数万冊にのぼる、それを収容するために、わざわざビルまで所有して、好奇心のおもむくままに、むさぼるように本を消費し続けてる人なんだよね。『本は安い。その本の情報を、他の手段で得ようとしたら、何十倍、何百倍のコストがかかる』と言っててね…。そんな、世の中の全てをむさぼり続けるのが生きがいのような人が書いた旅行記が、面白くないわけはないよね」
「ふーん」
「で、まず、まったくの根本的な命題である、『旅とは何か』というところから始まるのね」

しっかり予定を立てて、切符をあらかじめ買い、宿も予約してというようなセットアップされた旅はあまりしたいと思わない。ほんとのことをいえば、むしろ逆に、旅に予定があってはならないと思っている。(略)ある日突然乗物に乗り、行きたいところへ行くのがいちばんだし、宿も行った先々でそのとき探してきめるのがいちばんだと思っている。もちろんこういう旅の仕方では、いい宿にあたるとはかぎらないし、むしろ、とんでもなくひどい宿に泊まらざるを得ないことが度々ある。しかしそういうことは一向に苦にならない。逆にそういうひどい宿のほうが、旅の記憶に残って面白いくらいに思っている。(略)
いまいろいろ思い返してみると、私がこれまでにしてきた小旅行、大旅行、全部合わせると、全旅程は地球四周くらいになるだろう(略)

「うん、なんか、わかるような、旅に出る、というまさにその瞬間のワクワク感をうまく表してる気がするね」
「そう、この人は、大学の哲学科を出ているんだよね。いつも、素朴な疑問から、この世のすべてを『理解』したい、感じ取りたい、という衝動を持ち続けているんだよね。だからこういう哲学的な考えも出てくるんだよ」」

すべての人の現在は、結局、その人の過去の経験の集大成としてある。その人がかつて読んだり、見たり、聞いたりして、考え、感じたすべてのこと、誰かと交わした印象深い会話のすべて、心の中で自問自答したことのすべてが、その人の最も本質的な現存在を構成する。(略)
人間存在をこのようなものととらえるとき、その人のすべての形成要因として旅の持つ意味の大きさがわかるだろう。(略)
旅は日常性からの脱却そのものだから、その過程で得られたすべての刺激がノヴェルティ(新奇さ)の要素を持ち、記憶されると同時に、その人の個性と知情意のシステムにユニークな刻印を刻んでいく。旅で経験するすべてのことがその人を変えていく。その人を作り直していく。旅の前と後とでは、その人は同じ人ではありえない。

「なるほどねえ」
「そう、いつか語ったつげ義春の旅の仕方と似ているのよね。ほら、旅先だと、なんてことない色んな物ものが、えらく新鮮に思えるじゃない?コースの決った道筋よりも、ふと迷いこんだ路地のほうが印象に残ったり…。そしてそんな旅こそが、その人の記憶となり、人間を作っていくんだってことが、書かれてるんだよね」
「うん」
「著者は、若い頃、いったん大学を出て出版社に入るんだけど、思い直して、大学の哲学科に入りなおしてるんだよね。それもこれも、この世を根源から見直してやろうという究極の目的のために…。こんな人が書いた旅行記が、普通のものになるはずはないよね」
「そうだね」
「あるときスペインの大聖堂で…」

(略)私はほとんど誰も人がいない大聖堂にいって、しばらくただ座っていた。
そのとき突然、巨大なパイプオルガンが鳴り出した。何かはじまったというわけではない。オルガン奏者がただ練習のために弾いている様子だった。(略)
突然なぜか涙が出てきた。(略)説明しろといわれてもできない。(略)ただ自然だった。(略)
いまでもあれは、私の人生における不思議な体験のひとつとして、心の中にずっと残っている。(略)
そして、やはり、この世のなかには行ってみないとわからないもの、(略)自分がその空間に身を置いてみないとわからないものが沢山あるのだ、という思いを深くした。あの感動を味わうためには、あのとき、あの瞬間に、私が自分の肉体をもってあの空間に身を置いてなければならなかったのだ。(略)
一言でいうなら、この世界を本当に認識しようと思ったら、必ず生身の旅が必要になるということだ。

「ふーん。言われてみれば、そうかもしれないね。出不精な人間は、かなり人生を損してるかもしれないってことだね?」
「まあ、この論旨に従えば、そういうことになるかもね。この著者は、ジャーナリストになって、世界各地を取材して歩くことになるんだけど、意外なことに、旅行記は、これと、あと、『エーゲ永遠回帰の海』と言う本しか書いてないんだよね。取材対象について書き記すほうが忙しくて、旅行記というものに、本格的に取り組む暇がなかったみたい。だから、これは、貴重な本なんだよ」
「へえ」
「そして、この本の中にも、旅行によって取材を行った文章の数々が収められていてね、良く言えばごった煮的な魅力、悪く言えば寄せ集めみたいな感じになっているんだよね」
「ふーん」
「でも、そのルポのひとつひとつが、すっごく面白いんだよ。たとえば…」

二年前の夏、私はギリシアのアトス半島を訪れた。ここは俗に修道院共和国と呼ばれている。(略)ここはギリシア政府の国家権力も及ばぬ完全自治区なのである。千年以上も前に、東ローマ帝国の皇帝が勅許状によってこの半島を修道院に与えて以来、ここはギリシア正教の聖地として、歴代の世俗権力がその特別の地位を認めたまま今日にいたっている。(略)
ビザンチン様式のイコンや壁画がここほど豊かに残っているところは、世界のどこにもない。(略)
アトスでは、文明を極端に排斥している。たとえば、電気などというものはない。(略)主たる交通手段は自分の足かロバである。ラジオ、テレビ、新聞、雑誌など、俗世間の事情を伝えるものは何もない。持ち込みも禁止されている。

「へえ、そんな所があるの?初めて知ったよ」
「あたしもこの本を読むまでは、知らなかったよ。信じられないような話だよね。ここには巡礼者しか入れず、観光客は一切お断り、その地に単身乗り込むわけだよね。そうかと思えば、この著者は、に日本赤軍が1972年にイスラエルのテルアビブ空港で起こしたテロ事件の犯人の一人に、外務省を通してインタビューを行っているのね」
「ただの一般人が、そんなことが出来たの?」
「外務省の役人から、どんな事を聞けばいいのか、レクチャーを求められて、文書の形で質問したそうだよ。そして、あの、特攻自殺ともいえるテロ事件は、アラブ社会に大きな感動と影響を及ぼした…それが、今日の自爆テロにまで脈々と受け継がれている、というのね」

そこには、自分の命と引きかえなら相手を殺してもよいという日本的テロリストの美学が働いていたといっていいだろう。
この作戦に対してパレスチナ人の革命組織、PFLPは、「その闘争こそ、自分たちが(略)最もやりたかったことだったけれど、だれもできなかった闘争だ」と、すごく感動して協力したという。(略)
自殺攻撃が急にふえるのは、九〇年代にイスラム過激派が自爆攻撃作戦を取り入れるようになってからである。

「そして、話はイスラム教におけるジハード(聖戦)の思想につながっていくのね。そこにはまた、歴史の暗黒面ともいわれる、かつてのヨーロッパによる十字軍の侵攻というものが、今もなおアラブ世界に根強く恨みとして残っている、という課題を取り上げる…」

十字軍の評価ほど、イスラム諸国と西欧諸国でちがっているものはない。西欧では、十字軍はキリスト教精神に高揚した人々の起こした勇敢な行動で(略)高貴な行為だが、攻めこまれたアラブ側にしたら、(略)国土を奪い、民衆を大量虐殺していった侵略者であり、(略)人喰い人種だったのである。

「西欧側の資料にも、十字軍による、トルコ人、サラセン人の人肉を貪り食う行為が記録されているそうだよ」
「へえ。そんなだったんだ…世界史では、そこまで習わなかったな」
「ビン・ラディンの組織が、ユダヤ人と十字軍に対する聖戦をうたっていたのも、こういう背景あってのことだね。あたしもそこまでは知らなかったから、この本を読んで、初めて眼からうろこが落ちたような感じだね」
「うん」
「まあ、こんな感じで、歴史に対する確かな知識と知見をもって、世界中のあちこちを旅し、ルポした本なんだよ。パレスチナのゲリラ村に宿泊し、爆弾とともに一夜を過ごしたりとかね…」
「すごいね」
「あと、この本で、もうひとつあげると、ニューヨークについて、その摩天楼を見上げて…」

それは古代ローマ帝国の辺境の民族の一青年が長い旅路の果てに、永遠の都ローマに到着し、いまもフォロ・ロマノの遺跡群にその面影を残している壮麗な巨大建造物の立ちならぶ大通りをはじめて歩いたときに感じたであろう衝撃と同質の衝撃であった。

「そしてこの現代の永遠の都ともいえる大都会を隅から隅まで味わい調べ尽くしてやろうと、世界の金融センターの中心から、大銀行の金の秘密の保管金庫、勃興時代の面影を残す紡績業の、薄暗い隘路に似た工場の現場、ショー・ビジネスの裏側、今なお残る、成金を差別する隠れた上流階級のサロン、果ては刑務所からスラム街まで、その歴史と成り立ち、そして現在の考察へと、論を展開していくわけね。そして9・11にいたる…」
「うん」
「あと、この本のなかでは、著者の学生時代の貧乏旅行についても触れられているね。まだ海外旅行が一般的には禁じられていた1960年、広島の記録映像を巡回させるという名目で友人らとヨーロッパを目指す…」
「ふーん」
「原水協や各国の会議でビラを配り、賛同者を募り、そうするうち、ロンドンで開かれる学生主催の「核軍縮会議」への招待状が舞い込む。旅費を捻出するためカンパを呼びかけ、あとは映画を上映しつつその稼ぎでとにかく現地まで辿りつこうじゃないかという、無鉄砲な旅が始まる…」
「うん」
「ロンドン、パリ、スイス、イタリアと、放浪の日々が続く…そこでの様々な出会いに、著者は打ちのめされる」

しだいにその背後にある巨大な文化の体系が見えてくる。(略)ヨーロッパ文化のそのような厚みを、自分はそれまで全く知らなかった。なんてものを知らないんだろうと思いましたね。
(略)やはりこの旅行をしていた半年間は、人生で最大の勉強をしていたんだと思いますね。(略)この旅行から帰ってきたあと、物事がまったく以前と違って見えてきたことを、いまでもはっきりと覚えています。(略)
ぼくはあの頃から、日本の左翼の運動をいっさい信じなくなっている。

ー立花さんが膨大な読書によって独自の世界観を構築されてきたということはよく知られていますが、そうすると旅もまた、そのための方法だったということになりますか。
立花 「旅もまた」じゃなくて、「旅が」ですよ。人間すべて実体験が先なんです。(略)ある文化体系を理解しようと思ったら、そこに飛びこんでその中に身を置いてしまうしかないんです。(略)自分の全存在をその中に置いたときに、初めて見えてくるものがある。

「ながながと引用しちゃったけど、もう、この分厚い本の一部にしかすぎないからね。アッと驚くような鋭い指摘から、歴史をふまえた考察まで、ふんだんに盛り込まれた、中身の濃ゆい濃ゆい一冊なんだよ!」
「なんだか人生論みたいなとこもあるね」
「人生も旅のようなもの、という言葉もあるしね。ちょっと昔に出た本だし、情報的に古い部分もあるかも知れないけど、根本の部分はいまでも、そしてこれからも、変らず重要な指針を示していると思うな。すっごく基調で重要な示唆がパンパンに詰め込まれた刺激的なものだと思う。若い人にはぜひ読んで欲しいね。じゃあ、またね!」

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