「愛と憎しみの傷に」(田中英光)

「さあ、今日は、田中英光の続きだよ!この作者のハイライトともいえる、『愛と憎しみの傷に』を紹介するよ!」
「あのさあ、それはいいんだけどさあ…」
「なに?」
「このタイトル、ひどくない?前回の『愛と青春と生活』もそうだけど、『愛と憎しみの傷に』って…。ハナから、読む気失せるようなタイトルなんだけど」
「まあ、そうだね。この月曜書房の選集の解説で、亀井勝一郎も、『何という拙いタイトルだ!彼は題名をつけるのが本当に下手だった!』と書いているしね。」
「これじゃキワモノに見られてもある程度仕方ないような気もするなあ」
「まあ、もう、そこは割り切って、読むしかないよね。出世作となった『オリンポスの果実』にしたって、最初は『杏の実』というタイトルだったのを、師匠の太宰治が、『これじゃあまりにひどい』といって、傍らの本棚にあったギリシャ神話の本をとり出して調べ、『これにしなさい』と選んでくれたタイトルらしいからね」
「ふーん」
「まあ、タイトルは別として、この本も、内容は、むせかえるようなギトギトの、田中英光の破滅的な人生の苦悶が何重にも盛り込まれているような、すごく濃密で読み応えのある本なんだよ。前回も言ったけど、田中英光の作品って、全部でひとつというか、彼の人生を全体として語りつくすというようなところがあるから、今回も、この作品にとどまらず、この本を中心にして、色んな作品から彼の人生を拾っていきたいなと思ってるよ」
「うん」
「前回、京城でとにもかくにも結婚し家庭を持った英光は、それから、兵隊にとられたり、朝鮮文人協会の理事になったりするのね。このあたりは、『酔いどれ船』という長編に詳しいんだけど、戦時中の話は、あまり書き残していないね。『戦場にも鈴が聞こえていた』などの、日本軍の牧歌的な作品もあるんだけど、中には…」

ぼくも補充兵として召集を受け、半年足らず原隊で人殺しの教育を受けてから北支の全線に引張り出された。
(略)奴隷の軍隊としての惨虐性を中国において遺憾なく発揮した。(略)ぼくたちは、中国兵の捕虜に自分たちの墓穴を掘らせてから、面白半分、震える初年兵の刺突の目標にした。
(略)岡田という初年兵。(略)前線の惨忍な厳しい雰囲気になじめず、見ている間に痩せおとろえ精神まで異様に衰弱していった。
(略)分隊長は、岡田が剣も銃も捨て、乞食みたいな恰好でヒョロヒョロ歩いているのをみると、(略)「このド阿保が。くたばれッ。」と岡田の左耳から頬にかけ、力一杯、横なぐりした。岡田は口と鼻を血だらけにし、キリキリ舞いで、道路の真中の泥濘に大の字で倒れた。「お母さん、さようなら」岡田は虫の鳴くようにそうつぶやき、そのままビクとも動かなくなる。(略)銀蠅が群がってたかりだした。ぼくたちは岡田の死体を見棄て、行軍を続ける。(『さようなら』より)

私は度々、出征した。殺人と放火の無慈悲な戦場にいると、そんな甲羅をかぶったような妻でも、天使のように恋しく、私は帰還する度に、妻に子供を産ませた。(『野狐』より)

「そして敗戦後、生活の苦しくなった彼はひょんなことから共産党に入り、地区委員になるのね」

一九四六年四月のある蒼い黄昏―。
私が共産党選挙講演会の催される村の小学校の門前まで行くと、(略)しきりに立看板の準備をしているところだった。そのとき私は、第二次世界大戦の見透しを正しくなし得た共産主義の美しさに再び心ひかれ、敗戦の祖国を明るく再建できるものは、共産党以外にないと信じていたから、(略)「なにか、お手伝いをさせて下さい」と呼びかけた。(『地下室から』より)

「すでに作家としてそこそこの名のあった彼は、地区の責任者に抜擢される。しかし、そこで彼が見た党の人間たちは、ひねこびた、小狡い、小悪党ばかりだった…彼は、それでも我慢を続けるが、蔭口をたたかれ、糾弾されて、ボロボロになって党を飛びだす。主義は信じられるが、人間が信じられない、と、呟きながら」
「うん」
「彼は救いを求めて夜の街を、小説に出てくる天使のような女を求めて放浪するようになる…」

亨吉(註・英光の小説上での仮名)は、昨夜からの遊蕩の惰勢で、渇いたように酒が飲みたかった。いや、本当は、(略)例えば、シャルル・フィリップの描いた「ビュビュ・ド・モンパルナス」中のベルトのような、可憐な、真物の暗黒天使に会いたかった。(略)真っ直ぐ、浮浪児と暗黒天使のうようよしていると聞いた、上野の山にいってみようと思った。(『暗黒天使と小悪魔』)

「そんな毎日のなかで、ひとりの売春婦と出会う…」

桂子の過去を私はよく知らない。私は桂子と街で逢った。けれども普通の夜の天使と違った純情さと一徹さがあると信ぜられた。
(略)彼女は包まず、自分の恥ずかしい過去を語り、流涕し、しかも歓喜して私の身体を抱いた。(略)彼女がいっさい、包まず、自分の過去を語ったと思ったのは私の錯覚である。しかし少しでも、自分の醜悪な過去を私にみせてくれたのは、私にとって救いであった。
(略)桂子は、前に同棲していた異国人のおかげで、バラックながら一軒の家を持っていた。私はそこに転がりこんだ形になったのである。
(略)酔うと酒乱になる桂子と喧嘩する度に、(略)妻子の田舎に逃げ帰るのだが、そこで、妻の表情のかたい、甲羅をかぶった無言の軽蔑に出会うと、死ぬほど桂子が恋しくなり、また彼女のもとに逃げ帰ってしまう。
(略)彼女のためなら、自分の文学も、自分の一生も、不憫な子供たちも、いっさい、失ってもよいとまで思い詰めていた。しかし、(略)桂子の物欲の強くなっているのにはかなり悩まされた。(略)
「わたし、着物も欲しいし、うんと贅沢させてくれなくてはイヤ、ネ、女の虚栄というものを理解して頂戴」
ああ、これが私との逢いはじめに、私がボロボロのジャンパーに軍靴をはき、「ぼくは身なりをあまりかまわない男ですよ。それに貧乏作家で、あなたに贅沢をさせられないかもしれない」といったのに対し、やさしく、「ええ、あなたの愛情さえあれば、わたし、なんにもいらない」と答えた女なのだろうか。
(略)今は、店の同僚の女たちの衣装がみんな数十万円のものを身につけてると羨ましがり、自分にもそうした装身具を買ってくれとねだるのだ。私は死にたいほど悲しい気持ちで、彼女を抱いて眠っていたのに。(『野狐』より)

「つまり、体のいいカモにされていたのね。しかも、彼女は亨吉の留守中にも売春行為をこっそり行う、生っ粋の、莫連女だった…」

彼女が(略)三夜ほど外泊し、その度に、分厚い札たばを持ってきて、貯金したという話をきいて、私は愕然とした。(略)その後で、私は彼女に万という貯金のあるのも分った。
(略)殆ど居たたまれぬ思いで、もう一度、桂子の家を出て、姉のもとにいった。
(略)だが、その妻の勝ち誇った顔は、私の胸の傷をなお深くえぐった。(同)

「主人公は、女が再び街頭に立たずとも済むようにと、心を砕く…」

(略)都合できた五万円ほどの金で、女に、池袋のSマーケットに一軒の飲み屋を買った。
(略)自分の知人を、女の客にし、商売させれば安心できると思い、(略)学生の家主に挨拶にゆく。
(略)店に戻り、鍵をかけ、女とふたりだけで寝た。酔った女は自分から僕に挑みかかるほど情欲的で、狭い部屋、電灯の薄暗さが、僕たちの肉体を哀しいほど挑発した。(『聖ヤクザ』より)

「しかし、その店は儲からず、二、三度開いただけで閉めてしまう。あげくに、家主によって占拠され、パンパン宿として使われ、三人の女に一回五千円で外人客を取らせたうえで、家主は、桂子には、『管理料をよこせ』と、脅しをかけてきた。」
「うん」
「なにもかも上手くいかず、女はその度、姉の家の離れに居候している亨吉のもとに泣きついてくる。しかも、別れるなら慰謝料よこせ、と、泥酔状態で叫ぶ」
「ううん」
「とうとう別れる決心をして、金をもって、姉を伴って女の家を訪ねると、女から恋文を渡される」
「うん」
「号泣する女の姿に、亨吉は同情する。姉は、『それがあのひとの手よ』とさとすのだが…」
「うん」
「心配して数日後、亨吉が女の家を訪ねると、留守番の老女から、女は社交喫茶に通い、そこで売春行為を繰り返すようになっていたという。(それもこれも、自分のせいだ)と思った亨吉は、ますます女から離れられなくなる…」
「無限地獄みたいな展開ね」
「主人公も自棄になって、睡眠薬中毒へのめりこんでいくのね。とうとうある時、女と大喧嘩をした亨吉は…」

はじめぼくは正坐し、頭を下げて謝り、どうにかして桂子の怒りをときたいと努めた。だが酒乱の時の彼女の特徴で、こちらがどうでようが、自分の気の済むまで、ぼくを侮辱しなければやめない。ぼくも朝からアドルム三十錠も飲んでいたので、じきに前後の見境いなくカッとなり、その愛情がかえってひどい憎しみに転ずると、
「出て行けというなら、出てゆくとも。しかし俺の買ってやったものはみんな、ぶっ毀してゆくんだ」」
と立ち上りざま、(略)彼女の気に入りらしい、等身大の鏡台に素手で一撃を与え、鏡面の倒れるのをわざと硝子の割れるように箱の角に更に叩きつけた。
「重道さん、またあんたは汚ないことをしだしたのね。なんだい、これっぽっち、あれこれ買った位で、わたしの損が取戻せるものか。どうせ淫売扱いするなら、それでもいいわよ。ね、一昨年の暮から同棲したのを一日千円の割で払って頂戴。どうだい、払えやしないだろ。汚ない男だね。出て行けといったら出てゆきな」
(略)イキリ立って台所に刃物を取りにいったぼくの身体に、桂子が烈しく絡んできて、
「いけない。この上、品物を毀す積りなら、わたしを殺して頂戴」
「貴様なんか殺すもんか。その代りに、包丁一つで、こんなバラックぶち毀してやる」
(略)刺身包丁を掴んだ右手に、桂子の身体がつき当ったのをつき払った覚えがある。次には桂子がぼくの眼前に力なく倒れ、
「重道さん、あたし、お腹をつかれたから、死ぬわよ」
しかし血が見えぬのにぼくは安心し、彼女の身体に馬乗りになり、
「畜生、芝居をしやがるな。死ぬんなら殺してやろうか」
と、顔をぶち、傷つけた腹をギュウギュウ圧したので腸がとびだし、あとの手術に骨を折ったという。
ぼくはそんな桂子がいつの間にか家に姿をみせなくなったのに気づき、(略)散乱した部屋に横になり、暫く眠っていた。
すると玄関の戸があいたのに起き直ると、顔見知りの近くの交番の警官で、
「どうした、坂本さん、ぼくがあんなに注意してやったのに、自分で奥さんを刺したりしては困るじゃないか」
(略)電車路傍の交番まで同行される。ぼくはその時、ぼくたちの不道徳な生活に好意を持たなかったらしい近所の人たちが黒山のように集り、ぼくに憎悪と軽蔑の視線を注いでいるのに気づき、一層絶望的な気持になってしまう。

「拘置所に入れられた主人公は自殺を図ろうとするが、同房のものに止められてしまう。翌日、有名文士のスキャンダルは、新聞紙上にでかでかと載せられた…」
「まさに、地獄絵図ねえ。最初の、ボート部をやっていたころの爽やかさと、えらい違いだね」
「そうだね。主人公は、精神病院に入れられ、事件は結局、不起訴になるんだけど、世間からは白い眼で見られ、作家としての名声も、地に落ちた状態となった…。それでも」

ぼくは後先も思わず、桂子に恋文を送り、また彼女からも例の稚拙な字でメンメンたる思いを訴えてくる恋文をもらった。

「精神病院の先生からは、(あの女は君の手に負えない。いま別れないと、君の一生を食われるよ)と忠告をうけていたにもかかわらず、ね…」
「ふーん。どこで道を踏み外しちゃったんだか…壮絶な話ね」
「ついには、こんな文章を書くことになるのね」

君たちのためにも、お父さんは一日も早く死んだほうがいい。(略)
このまま、お父さんが生き恥をさらし生き続け、お母さんや君たちに殆ど一銭も送らず、もはやアドルム中毒も治らず、(略)先輩や知人の家なども荒して行き場がなくなり、書くものもすさみはてるばかりだと、結局、ぼくも君たちも救いがたく不幸になるばかりだと実感されるからです。
(略)こうして君たちから離れていると、お父さんには、ただ君たちが恋しい、可哀想な子供たちに思えて仕方ありません。(『子供たちに』)

「子供たちのうち、一番幼い由美子を連れて、桂子の家にころがりこんだ主人公だったが、女とのまたもやの諍いで由美子を連れ出し夜の街へ入り込んでしまう…。」

薬の酔いで理性を失っていたぼくは、その夜、由美子を連れ、新宿の悪所に一夜を明しました。(略)由美子をその相手の若い娘に預け放しにし、夜の八時頃まで、友人の編集者と銀座で酒、アドルムに酔いしれていたのです。
やっと駆けつけた時、由美子は妓たちの仲間にまじり、表を通る酔客をみては、「アラオ父チャン、イラッシャイヨ」と声をかけていた。更に、彼女はどの妓も無心に、「オ母チャン」と呼んでいます。ぼくはそれに胸が痛かった。君たちにとり、どんな大人も、男はお父さん、女はお母さんと呼べる時代がきたら、それこそキリスト教としても、共産主義としても、理想的なものだろうが、無心の由美子はそれと逆の、絶望的な環境におかれながらも、平然として、そんな呼び方をしている。これにぼくはドキリとしました。(同)

「そして…」

強力催眠剤を五十錠も飲み、そのお墓まで辿りついて、左手の動脈を軽便剃刀で切ること。それが私を置き去りにした津島さん(註・自殺した太宰治のこと)や、ひどい眼にあわせた女への復讐になると思うと、自分の文学や人生の敗北もかまわず、ヤモタテもなく、それを実行したくなる。(『離魂』)

一九四九年(三六歳)
(略)十一月三日夕刻、太宰治の墓のある(略)禅林寺へ行き、墓前で薬と酒を飲んだうえ、左手首を剃刀で切り自殺を図る。(略)病院にかつぎ込まれたが、同夜九時四十分、看取る肉親もなく息を引きとった。
(太宰治の)墓前には、新潮社版太宰治集の朱の扉に、鉛筆で、覚悟の死です(略)とうとう再生できなかったぼくをお笑いください、太宰先生の墓に埋めてください、(略)できれば全集を編んでください、印税は子供に渡るようにしてください、と書かれていた(田中英光年譜より)
「田中英光内妻を刺す、と、去る五月の各新聞をにぎわした情痴事件のほとぼりもまださめぬ十一月三日、デカダン作家のラク印をうたれたまま、元オリンピック選手でアプレ・ゲール作家田中英光は、とうとう、恩師太宰治のあとを追って自殺してしまった。」(週刊東日の記事)

「こうして、生涯を終えてしまったわけね」
「なんか、壮絶すぎて、言葉もないね」
「そう、そして、彼はあぶくのようなデカダン作家の汚名をおびたまま、月曜書房のこの三冊の選集を出したっきり、昭和三十九年まで忘れ去られた作家になるのよね。ただひとつ、文庫版の『オリンポスの果実』だけを残して…」
「うん」
「ようやく最近よ、それ以外の作品が再評価されて、文庫で出だしたのは…。講談社文芸文庫から、『桜・愛と青春と生活』が出て、『田中英光デカダン作品集』と続き、角川文庫から、西村賢太の編集で、『田中英光傑作選』が出たんだよね」
「ふーん」
「西村賢太は、若い頃、土屋隆夫の『泥の文学碑』で田中を知り、その当時忘れられかけていたこの作家の作品を、むさぼるように読み込んだらしいね。のめり込んだあげく、『田中英光私研究』という冊子を自費出版するほどだったらしいよ」
「そうなんだ」
「昔、ヤフオクで二千五百円くらいで出てたんだけど、買っておけばよかったな。いま、古本で数万円はするんだよ」
「へえ」
「あと、『田中英光・愛と死と』(竹内良夫)と言う本も読んだな。田中は作家仲間から、なんであんな淫売女と付き合ってるんだ、と、忌み嫌われていたらしいね。女のほうは、最後には新しいパトロンを見つけて、田中をさっさと捨ててしまったようだよ。」
「そうなんだ」
「まあ、それからしばらくして、女は交通事故で死んでしまうんだけどね…あと、息子のうち、田中光二は、のちSF作家になって、父との交流を記した『オリンポスの黄昏』って本を出してたね」
「ふーん」
「まあ、今もそんなに知られた作家じゃないとは思うけど、あたしは、師匠であり有名である太宰治より、こっちのほうが面白いと思ったよ」
「そう?」
「世間的な評価は、逆なんだろうけどね…まあ、好みの問題かな。実際、太宰の親友だった檀一雄にしてからが、太宰の後期の作品より、田中のほうが優れていると言ってるし、武田泰淳も似たような事を言ってたね…いまは、さっき触れた三冊の文庫本が、どれも電子書籍になってるし、『オリンポスの果実』その他数編が青空文庫に入ってるんで、興味がわいた人はぜひ、読んでほしいな。ここで紹介した分の何層倍もの、むせかえるような息詰まるような世界が満タンに詰め込まれているから。じゃあ、またね!」

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