「皇帝のかぎ煙草入れ」(J・ディスクン・カー)

「今日は、ジョン・ディクスン・カーの『皇帝のかぎ煙草入れ』を紹介するよ!」
「ふーん?何だか、相当古そうな本だね」
「まあね、カーの探偵小説は、戦前から日本に紹介もされていて、横溝正史なんかも、大いに影響されてたそうだよ。今も推理小説好きの間では、熱心なファンがいて、ほぼ全作品が翻訳されているんだよ!まあ、あたしは、あんまり読んでいないんだけどね…」
「あれ?そうなの」
「うん。そのわけは後でいうつもりだけど、あたしにとってのカーは、本格推理作家というよりも、サスペンス・メロドラマ作家として、記憶されているんだよね。で、その、あたしの読んだカーの作品の中でも、ダントツに面白かったのが、この『皇帝のかぎ煙草入れ』なんだよね」
「へえ」
「ところがこの作品…創元推理文庫でだったかな…冒頭がすごくとっつきにくくて、ちょっと読んでは止め、また内容を忘れた頃にちょっと読んではまた中断し…で、長い間ほったらかしにしていたのね。それで」
「うん」
「最後の手段として、本をカッターで一ページずつ切り離して、読み始めたの。まあ、今でいう電子書籍みたいな感覚でね。それで、読んでいったんだけど、はじめから四分の一くらいまできたところで、ページを切り裂いてる暇がないくらい面白くなっちゃって、一気に最後まで読んでしまった」
「へえ。途中から面白くなってきたってこと?」
「そうだね。昔は読むスピードものろかったし、冒頭あたりの、背景説明のだるさに耐えきれなかったんだと思うけど、それでも、後半にいたってからの、ジェットコースター並の展開ハラハラさには、一気に飲み込まれてしまったんだよね。いかに面白いか、これから説明するね」
「うん」
「お話はね、こんな感じで始まるんだよ。二十八歳の女主人公・イヴは、不実な夫、ネッド・アトウッドと離婚して、鬱々とした日々をイギリスの別荘地で送っていた。ネッドは、離婚が成立したあとでも、しつこくイヴに自信満々に言い寄って来る卑劣漢でもあった。別荘地で一人過ごすイヴの前に、さわやかな青年、トビーが現れる…」

素朴な、いくぶんぎごちない青年だが、イヴが久しくお目にかかったことのない快活な表情をしていた。(略)
その日の午後、はやくもトビー・ローズは、すばらしい女性に出会ったことを家族に話していた。卑劣な男と結婚していたが、いまでは、誰もが賞讃せずにはいられない生き方で、立派に耐え抜いていると。
(略)ローズ一家は素直に彼女を迎えいれたのだ。
(略)イヴのとまどった気持ちは熱い感謝の念に変った。氷のような神経もやわらぎ、いつのまにか仕合せな気持を抱きはじめている時間がこわいほどだった。

「トビーたちの一家は、イヴの住んでいる家のすぐ向かいにあったのね。夜になると、その二階で、トビー一家の父親であるモーリス卿が、テーブルの上にかがむようにして、趣味の骨董品をうっとりとした表情で眺めているのを、イヴの寝室からその灯りを通してはっきりと見る事が出来た」
「うん」
「ところが、運命の夜、合い鍵を持っていた、前夫のネッドが、イヴの寝室に乱入してくるのね」
「ふーん」
「イヴはまだ自分に未練を持っていると信じて疑わないネッドは、はげしくイヴに言い寄るが、厳しい態度で拒絶されてしまう。」

「ほんとうに、あのローズとかいう男と結婚する気か?と、彼は吐き出すようにいった。
「そうよ」(略)「そばによらないで!」

「イヴは、彼を追い払わなければならないと思うと同時に、今日この男が寝室に入り込んできたことを、誰にも知られてはならない、どんな無実の罪をなすりつけられるかわかったものじゃない―という恐れもあった。ところが、よりによってそんな時、隣家の二階である惨劇が起きていた…ネッドが入ってきたときには、テーブルにかがむようにして、骨董品を眺めていたはずのモーリス卿がー」

彼の目は、五十フィートと離れていないモーリス卿の書斎の明るい窓に、真直ぐそそがれていた。(略)しかし、書斎の中は、わずか数分前にネッドがのぞいたときとは様子が変っていた。
(略)二人が見ると、誰かがそっと、そのドアをしめるところだった。
誰かが書斎からぬけだすようにドアがしまったのだ。イヴはやや遅れて窓辺によってきたので、その顔を見ることができず、あとあとまで、それにつきまとわれることになった。だが、ネッドは見ていた。
しまっていくドアのかげから、手がすっと出た。この距離からだと、小さな手に見え、茶色がかった手袋をしていた。
(略)モーリス卿の頭はこちらからは見えないが、なにかの凶器で、何回もはげしくなぐられていたのだ。(略)動かなくなった頭は、べっとりと帽子のように血でおおわれていた。

「イヴは、一刻も早くネッドを帰らせなければならないと焦る。怖れていたのは、警察を通じて、この夜中に前夫と一緒にいたことをみなに知られてしまうのではないか、そうなれば、どんな疑いを持たれるかもわからない、という事だった。」
「うん」
「彼は、殺人犯の顔を見ている唯一の人間だった。しかし、この窓から見ていた、この部屋にいたということを証言されてはまずいことになる」
「うん」
「そこで、彼女は、あらぬ失敗をしてしまう。あわてたあまり、二階の階段の上で、彼の体を力づくで押してしまった。ネッドは、階段から転げ落ち、頭を強く打った。血が流れる。」
「ふーん」
「彼はふらふらしてはいたが、いちおう歩けたので、彼女のいうがままにその場を去る。彼女の衣服は、彼が怪我をしたときに流れた鼻血がべっとりとついていた。外へ出た彼女は屋内に入ろうとするが、鍵がかかっている!そこへ、警官がやってきた…」
「うん」
「彼女は、殺人の容疑を着せられてしまうのね」
「ふ-ん」
「もちろん、現代の目から見れば、付着した血のDNAを調べれば、無関係ということはわかるんだけど、当時は、血液型の違いくらいしか、血の来歴を証明するものはなかった。そして、殺されたモーリス卿の血液型と、ネッドの血液型は一致していた…」
「うん」
「そして、悪いことに、彼女はその時パジャマの中に、自分の家の合い鍵を持っていた―前夫から無理やり取り上げていたのね―その鍵は、その辺り四軒の家に共通していたもので、モーリス卿の家の鍵としても使えるものであった」
「へえ、偶然ってかさなるものね」
「そして、決定的だったのが、彼女の部屋から、モーリス卿が殺されたときに、同時に打ち壊されていた骨董品…ナポレオン皇帝の愛用したかぎ煙草入れの破片の一片が見つかったということね。」
「うん?なんで、そんなことがありえるの?」
「そこがまた、のちのち明かされてくる大きな謎なのよね。ところで、彼女の身の潔白を証明してくれるものは、いよいよ前夫のネッドをおいては他にいなくなった。ところが―」

「アトウッド氏は、(略)脳震盪を起こして寝込んでいます。(略)」
これまで彼女に向けられてきた非難は、他愛もない、皮肉めいた冗談にすぎなかったろうと、博士は思った。ところが、いま突然、それはまるで違ったものに転じてしまった。すべての行きつく先が、彼女に見えてきたのだ。(略)
「脳震盪…?」
(略)夜中の一時半に、アトウッドしは(略)ホテルのロビーに入ってきて、自室へ上がる途中、エレベーターのなかで倒れたのです」(略)
「おわかりですね。アトウッドしはいま、何も証言できないでしょう。回復もむずかしいといわれております」

「さあ、ここからが、彼女の孤独な戦いになってくるのよね。誰も信じてくれない、あの純粋だったトビーさえも…。果たしてあの時、殺人を犯してドアを開けて出て行った人物は何者だったのか?茶色い手袋の謎は?手袋の持ち主であるトビーの伯父や、怪しいメイドなど、疑わしい人物が次々と現れる中、彼女の孤独な闘いは報われるのか?ついに警察に逮捕されてしまった彼女の冤罪を疑っているのは、警察署長の友人の精神分析医、キンロス博士だけだった…」
「うん」
「だいたいのアウトラインは、こんな感じね。出だしとして、申し分ないでしょ?」
「うん。どうなるのか、先が気になるね!」
「これから先は、事件の展開のダイナミックさ、論理のアクロバットの華麗さ、あまりにも意外なトリックの見事さ、全てが凝縮された一大巨編になるんだよ!何よりも、事件に翻弄され、つくされる一人の女性の運命に、ハラハラせずにはいられないよね。推理小説としての見事さもありながら、あたしが最も心にのこったのは、この無限地獄ともいえる状況のなかを、渦に巻き込まれた木の葉のように翻弄されながらも、懸命に戦っていこうとする女主人公・イヴの立ち姿だったね」
「ふーん」
「この小説について、江戸川乱歩はこう言ってるね」

(略)非常に感心した。このトリックは(略)不可能興味の最もズバ抜けたものである。不可能中の不可能が可能にされている。又ナポレオン皇帝の嗅ぎ煙草入れが極めて巧みな小道具として使われているが、この品についての一つの盲点が犯罪発覚の端緒となるあたり、実に心憎き妙技である。(江戸川乱歩『幻影城』より)

「とにかく、あまりにも鮮やかなアクロバット的なトリックと、ハーレクインなみに感情を揺り動かされる女性の運命やいかに、というメロドラマ調の冒険的な興味とで埋め尽くされた、他に代えがたい一品だったね。すべてが明らかになったのちの、彼女にとって「余りに長い旅」だった、その事件の全貌をふりかえる、その感慨にも、うちふるえるような感動があったし」
「ふーん」
「とにかく、これ以上詳しいことを言えないのがもどかしいんだけど!ぜひ読んでみて欲しいね」
「うん。ところで、お姉ちゃん自身は、あまりカーの作品を読んでいないって言ってたよね?」
「そうね。実は昔、『妖女の隠れ家』『連続殺人事件』『盲目の理髪師』と読んで来たんだけど、古色蒼然としてて、あまり楽しめなかったのよね。そんな感じで、カーの作品からは、遠ざかってしまって…でも、カーの作品って、妙にコミカルなところもあって、そこは嫌いじゃなかったな。『連続殺人事件』の出だしなんか、古き良き時代のモノクロのハリウッド・ロマンスコメディみたいな色合いもあったしね。そういうドラマチックな盛り上げ方が、推理と一番マッチングして、最大の効果を上げたのが、今回紹介した『皇帝のかぎ煙草入れ』だったんじゃないかな、と思ってる。だから、カーと言えば、一級のドラマチックなミステリーを書ける作家だったな、という印象ね」
「うん」
「実は、カーの作品のなかで、傑作とされている小説で、まだ読んでいないのが数点あるのよね。この記事を書くにあたって、確認の意味で『火刑法廷』を読んでみたんだけど…」
「うん」
「トリックに次ぐトリックの物凄い展開は多いに楽しめたんだけど、やっぱりちょっと、真相が、過去の古い因縁話に通じるところは、古色蒼然という印象をうけたね。やっぱり、今のところの一番は、この『皇帝のかぎ煙草入れ』かな」
「ふーん」
「『火刑法廷』については、後日、トピック以外の部分で触れることがあるかも知れないね。これも、徹夜本の傑作であったことには、間違いないんだから。カーについては、マニアが書いた解説本がいっぱいあるから、そこらへんをとっかかりにして読み進めていくのがいいかもしれないね。あたしも、うっかりした事を言おうものなら、マニアの人から批難の小石がいつ飛んで来るかもわからないし、この辺にしとくね。じゃあ、またね!」

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