「ナイン・ストーリーズ」(J・D・サリンジャー)

ホテルにはニューヨークの広告マンが九十七人も泊まり込んでいて、長距離電話は彼らが独占したような恰好、五〇七号室のご婦人は、昼ごろに申し込んだ電話が繋がるのに二時間半までも待たされた。でも彼女はその間を無為に過ごしたわけじゃない。ポケット判の婦人雑誌の「セックスは楽し―もしくは苦し」と題する記事を読んだ。櫛とブラシを洗った。ベージュのスーツのスカートのシミをとった。(略)窓辺に作りつけたソファに坐り、左手の詰めのマニキュアももう少しで終わるというとこへようやく交換手からの呼び出し電話がかかってきたのである。
(略)電話は鳴るにまかせたまま、小さな筆を動かして小指の爪のマニキュアを続け、(略)それから立ち上がりながら左手、つまり濡れてるほうの手を前後に振って風に当てた。それから乾いてるほうの手でソファの上から吸殻でいっぱいの灰皿を取り上げると、それを持って電話がのってるナイト・テーブルのそばへ歩いて行った。(略)そして受話器をとった
―五度目か六度目のベルが鳴ったとこだった。
「もしもし」左手の指を白い絹の化粧着に触れないように伸ばしたまま彼女は言った。

「今日は、サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』を紹介するよ!」
「ふーん。なんか、読んだことはないけど、…意識高い系の人が喜びそうな作家ってイメージだね。…あれ、どうしたの?」
「…いや…ついにこの日が来たか、と、ちょっと感無量になっちゃってね…なんせ、あたしが高校時代に、どハマりしてた作家だからね…」
「そうなの?」
「うん、サリンジャーの全作品を、白川書院の全集にいたるまで全部読んで、この本だって、なんだかんだでもう十回は読んでる気がする…。どこのページを開いても、もう、暗記寸前くらいに、既視感たっぷりなの…それで、読むたびに酔っちゃうの」
「酔っちゃう?お酒みたいに?」
「そう、もう、ウイスキーの原液にモロに触れたようなというか…まあ、また説明するけど、強烈なのよね…」
「ふーん」
「『ナイン・ストーリーズ』は、タイトルそのままに、サリンジャーがそれまで書いてきた九つの短編小説を集めた本なの。そして、その冒頭にくるのが、上で紹介した文章から始まる、『バナナ・フィッシュにうってつけの日』なのね」
「へえ。何だか、ごくありふれた日常を描写している、って、感じがするね」
「そこが、後からも言うけど、ミソでね…で、この話は、その、電話をとったミュリエルと、かけてきた母親との会話になるの」
「うん」
「その会話によると、ミュリエルは、新婚旅行でハワイに来ていて、母親は、花婿について、何かヒヤヒヤしてる部分があるようなの」

「あんたのことが心配で、ほんとに死ぬ思いでしたよ。(略)大丈夫なの、あんた?」
(略)「お父様はね、シヴェツキー先生に相談なさったのよ」
「そう?」
「(略)木のことも、例の窓の一件も、それからおばあちゃまに向ってあの人がひどいことを言った話も。(略)それでね、先生が言うにはね、そもそも陸軍があの人を退院させたのが完全な犯罪行為というものだって(略)シーモアは完全に自制力を失ってしまう可能性があるって」
「今どこなの?あの人」
「浜よ」
「浜?一人で?ちゃんとおとなしくしてるかしら、浜なんかで」

ミュリエルは、大丈夫だから心配しないでと電話を切る。ここで、読者には、その新婚の夫のシーモアというのが、かなり変な…常識的ではない人物だなということが、暗示されるのね。いっぽう、浜では…

「もっと鏡見て」シビル・カーペンターが言った。シビルは母親といっしょにこのホテルに泊まっている。「ママ、もっと鏡見た?」
「お嬢ちゃま、もうそれ止めて。ママはもう気が狂いそうよ。さあ、、じっとして、お願いだから」

「シビルという幼女が、母親と共に浜辺に遊びに来ていたのね」

「さあ、行って遊んでらっしゃい、お嬢ちゃま。ママはホテルに戻って、ハベルさんの奥さんとマーティニを飲んで来るからね(略)」
解放されたとたんにシビルはとび出して、海岸の平らになったとこへ駆け下りていった。(略)水に浸されて崩れた砂の城を踏みつけるために足を止めただけで、まもなくホテルの泊り客専用の区域から外へ出て行った。
(略)一人の青年が仰向けに寝そべってるとこまで来て不意に立ち止った。
「水に入らないの、モット・カガミ・ミテちゃん?」
青年はびくりとして、(略)
「やあ、こんにちは、シビル」
「あんた、水に入らないの?」
「きみを待ってたんだ」
(略)シビルは青年がときどき枕代わりにしていたゴムの浮袋を足先でつついた。「これ空気が抜けてる」と、彼女は言った。
「そのとおり。そんなに抜けてるとは迂闊だったねえ」
(略)とたんにシビルはしゃがみ込むと、砂をほじくりだした。「水に入りましょう」と、彼女は言った。

「青年と彼女との会話は、かみ合うようでかみ合わない、現実の世界がそうであるように、すごく曖昧で漠然としてて、唐突なのよね。」

「こうしよう、これからバナナフィッシュをつかまえるんだ。やってみようよ」
(略)「あんた、蠟は好き?」
(略)「大好きだね、きみは?」
シビルは黙ってうなずいた。そして、「オリーヴ好き?」と、訊いた。
「オリーヴね。好きだよ。オリーヴと蠟と。ぼくはどこへ行くにも必ずオリーヴと蠟を持ってくんだ」
(略)「あたしは蝋燭をかじるのが好き」しまいに彼女はそう言った。

「彼らは水に入る。青年はバナナフィッシュについてまた説明する。」

「彼らはね、実に悲劇的な生活を送るんだ」(略)「あのね、バナナがどっさり入ってる穴の中に泳いで入っていくんだ。(略)彼らは肥っちまって、二度と穴の外へは出られなくなる。(略)」
「あんまり沖に出ないで」と、シビルが言った。「それでどうなるの?」
(略)「うん、言いにくいことだけどね、シビル、彼らは死んじまうんだ」
「どうして?」
「それはね、バナナ熱にかかるのさ。これはとても怖い病気なんだ」

「そして、波が彼らにかかる。その時シビルが…」

(略)「いま一匹見えたわよ」
「見えたって、何が?」
「バナナフィッシュ」
「えっ、まさか?」

「彼らは遊びを終える。」

「さあ、戻ろう。もうたくさんだろう?」
「たくさんじゃない!」
「お気の毒さま」と、彼は言った。そして岸へ向かって浮袋を押していった。そのうちにシビルが降り、後は彼が浮袋を抱えて行った。
「さよなら」シビルはそう言うと、未練気もなしにホテルの方へ走って行った。

「そして青年も婚約者の待つホテルの部屋へ戻る…」

彼はツイン・ベッドの片方に身を横たえて眠ってる女をちらりと見やった。それから幾つかあるトランクの一つに歩み寄り、それを開けて、(略)オルトギース自動拳銃を取り出した。(略)そしてツイン・ベッドのふさがってないほうのとおころへ歩いて行って腰を下ろすと、女を見やり、拳銃の狙いを定め、自分の右のこめかみを撃ち抜いた。

「ああ。また短編一本分まるまる紹介しちゃった。著作権違反で訴えられるかな」
「なんか、意味があるんだかないんだか、よくわからない話だね」
「そうね。読者は、登場人物たちの謎の行動や会話から何が起こってるのか、あれこれ考えながら読まなきゃならないし、その会話なんかにしたって、まるで、現実世界を何の加工もなしにトレースしたような、焦点の定まらない、脈絡のない生の会話を聞かされているような感じで書かれているしね」
「そうだね。で、何が言いたいのか、読者があれこれ考えるしかないってこと?」
「そういうことになるね」
「うう、めんどくさい作家…」
「でも、そこがいいのよね。書いてることは、まさに取るに足りない、普通の作家なら省略してしまうような細かい動作のはしばしとか、会話の脈絡ないきれっぱしだったりするんだけど、それが、最大限の効果をあげて、読む者の想像力を刺激して、しまいには、麻薬のようにこの、わけのわかったようなわからないような文章のとりこになってしまうのよね」
「ふーん。そういうものなの?」
「そう。この短編も、ここまで日常を…それも、当り前のようでいて、よくよく考えてみると、かなりヘンな日常を…積み重ねているからこそ、最後の一文の衝撃が強烈になるのよね」
「まあ、それはそうかも」
「シーモアの自殺にしたって、謎を残すというか…まあ、この事件がその後のサリンジャーの作品世界に大きくおおいかぶさって来るんだけどね」
「そうなの?」
「このほかの短編も、同じように、日常が淡々と…描かれてる、というか、で、そうはいっても、まあ、それぞれに、微妙に変なものが混じって来るような感じで書かれてるんだけどね。」
「ふーん」
「それが、まるで、自分の知らないところで、現実世界というやつの不気味な深淵がぱっくりと口を開いてるんじゃないか、この現実の中に、知らず知らず、そんなものが潜んでいて、もしかしたら、そっちが本当の現実というものの正体であって、今まで自分が気づかなかっただけなんじゃないか…って、だんだん不安定な気持ちにさせられるのよね」
「へえ」
「たとえば、これも傑作の、二番目の短編、『コネティカットのひょこひょこおじさん』の出だしよ」

メアリ・ジェーンがやっとのことでエロイーズの家を見つけたときにはもう三時近くになっていた。メアリを迎え玄関先にまで出ていたエロイーズに向って彼女は、すべては全く完璧にいって、道もメリック・パークウェーへ曲がるまでは性格に覚えていたのだと弁解したのに対し、エロイーズは「メリックじゃない、メリット・パークウェーと訂正し、この家だって前に二度も来て、ちゃんと見つけたではないかと言った。
(略)それから二十分の後、二人は広間で一杯目のハイボールを飲みほしながら、かつて大学時代に寮で同じ部屋に住んでいたルームメート独特の、おそらくは彼女たちでなければ通用しまいと思われる口調で語り合っていた。

「そこで、二人は、かつての学友のだれだれが、いまどうしてるとか、あの時変な服を着てたよねとか、髪は染めてたよねとか、たわいのない世間話をはじめるのね。」
「うん」
「その会話のさなか、エロイーズの娘の、幼いラモーナが扉のかげから姿を現す…彼女は、架空のジミーという男友達といつも一緒にいる、という言動を常にする異常な幼女だった」

「ジミーなんていうの?ラモーナ?」
「ジミー・ジメリーノ」と、ラモーナ。(略)「どうして、大したもんだわ」メアリ・ジェーンはエロイーズに言った。
「あんたはそう思うかもしれないけどさ、あたしは一日中これをやられるのよ。(略)食事もこの子といっしょにするし、お風呂もいっしょなら、寝るのもいっしょだなの。寝返りを打つ拍子にジミーに痛い目をさしちゃいけないからって、この子ったら、ベッドの端っこに寝てるのよ」

「ラモーナが去ったあと、また二人は、たわいないしゃべりを続ける…。しかし、その中で、エロイーズのかつての許嫁だった、ウォルトの話になると…」

「つまりあんたにはウォルトのほんとのとこが分ってないんだよ」と、エロイーズが言った。(略)「あたしを笑わせてくれる男の子はあの子しかいなかった。しんから笑わせてくれるのはさ」
(略)「一度わたし、つまずいて転んじまったことがあるんだ。(略)そしたらウォルトがね、<かわいそうなひょこひょこおじさん>だなって言うの。(略)いい子だったなあ、彼」

そしてエロイーズの今の亭主である、ルーの悪口をさんざん言い合ったあと…

「エル…」と、彼女が言った。
「うん?」
「ウォルトがどうして死んだのか、なぜ教えてくれないの?あたし、誓って他人には言わないから。本当よ、お願い」
「いやだ」

話はだんだん深みへ入り込んでいく…

「彼の連隊がどっかで休養してたんだ。(略)ちっちゃな日本のストーヴを荷造りしてたんだな。(略)そいつが二人の鼻先で爆発したんだな(略)」エロイーズは泣き出した。
(略)玄関のドアが開いた。
「ラモーナだわ」

ラモーナは、イマジナリーフレンドのジミーが車に轢かれて死んでしまったという。彼女をベッドに寝かせて、二人は飲み続ける。そして、メアリ・ジェーンはソファの上で眠ってしまう…。
夜半、二階に上り、ベッドに寝ているラモーナが、相変わらず端っこに寝ているのを見て、エロイーズは…。

「あんた、ジミー・ジメリーノは車に轢かれて死んじまったって言ってたでしょ」
「なあに?」
「とぼけたってだめ。どうしてこんな端っこに寝るの?」
「だって」
「だってどうしたの?ラモーナ、ママはもういやですからね」
「だって、ミッキーが痛くすると困るんだもん」
「誰がですって?」
「ミッキーよ」ラモーナは鼻をこすりながらそう言った「ミッキー・ミケラーノ」
エロイーズは思わず悲鳴に近い甲高い声で「ベッドの真ん中でお休みなさい、さあ、早く」
ラモーナはすっかりおびえきって、ただエロイーズを見上げているばかりである。
(略)涙があふれ出て、眼鏡のレンズを濡らした。「かわいそうなひょこひょこおじさん」何度も何度も繰り返して彼女はそう言った。
(略)ラモーナは眠っていなかった。彼女は泣いていた。

「ああ、もう、うっとりしちゃうね」
「これも謎の多いっていうか、つかみどころのない話だね」
「そこがね…サリンジャーの技巧の凄いところでね…これが、この描写、この書きぶりの一つ一つが、もう、癖になるのよね…自分はいまなにを読んでいるんだ?タダの現実のようでいて、もしかしたら、得体の知れない、恐ろしいなにかじゃないのか?自分がいままで当り前に暮らしてきた世界とは全く違うものが、この話のなかにはあるんじゃないか?いや、逆に考えれば、自分が当たり前に思い、暮らしてきたこの現実世界そのものが、実はいびつで恐ろしいものを覆い隠しているんじゃないか?この話はそれを自分につきつけてるんじゃないか?と、そういう不安を、サリンジャー作品は読者に植え付けるわけね」
「うーん」                              「サリンジャーは、この世の中にあふれている、俗っぽいものを徹底的に嫌っていた作家として知られているのね。安易なヒロイズムとか、スノビズムとか…でも、面白いのは、サリンジャーは、これだけ、『俗っぽい現実』を嫌いながら、描写の上では、舌なめずりをするように、その乾いた現実を、刻明に、緻密に、描写していくのよね。…現実のいろいろ煩瑣な部分を、最大限に嫌いながら、なぜか描写のうえでは、その大嫌いな現実の描写を、これでもか、これでもかと、細部にわたって、刻銘に行っている、まるで、大嫌いであるはずの現実を、マゾ的に、骨まで愛してやまない、みたいな…書き方になっている。それによって、乾いた現実世界を、そのままの形で、祭壇の上に置いた、一種、一段階上の神話の世界の、象徴劇のように祭り上げて、作者含めた読者を、中毒させうるひとつの帝国みたいなものを作り上げるという…これも、ひとつの大きな快感よね…」
「ふーん」
「そうするうち、一種の麻薬作用というか、ありふれた現実世界が、一種別世界の悪夢をふくんだ逆・桃源郷のように変容してくるのね。これも、サリンジャーの計算と技巧のうちなんだけど」
「うん」
「読むほうにとってみれば、そういう逆説的な桃源郷にいることが快感になっていくのよね。そうなるともう、作品世界のとりこよね。この現実世界の恐ろしさ、正体を察知するとまではいかないものの、おれは、その一端に触れる…あるいは、気配を感じとるまでは行ったんだ!と、電流にうたれたように感じるわけね」
「うーん、それもまた単純なような気もするけど…」
「そこがまたサリンジャー作品の巧みなところでね、たわいない細部の描写でありながら、ふと読者が油断して、いつしか気づきもしないうちに、誘い込まれるように、誘導していくのよ。ちょうど、長い旅をしてきたあげくに、いつしか、足を深みに取られて、身動きできなくなった、というように…」
「ふーん」
「で、その、一種酩酊状態に至るまでの酔わせ方ってのが、サリンジャーは、天下一品なのよね。もう、ほれぼれするぐらい、一語一語が巧みなの。免疫のない読者だったら、イチコロでやられてしまうような…」
「へえ」
「この『ナイン・ストーリーズ』の巻頭には、こういう識語が掲げられていてね…『両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに?』っていう、禅の言葉よね。…うーん、まあ、これは、さすがに今となってはあからさまで笑ってしまうけど、目に見えないものに真実がある、というか、あるのでは?と読者を幻惑させようとする、サリンジャー的世界の特徴をよくあらわした言葉だと思うね」
「そうなんだ」
「まあ、あたしも、最初に読んだときは、なんて深い言葉なんだ!と感激したくちだから、偉そうなことは言えないんだけどね…。あとの七つの短編も、傑作ぞろいだよ。長くなるから触れないけど、『笑い男』は、ニューヨークの下町の子供たちの野球団を舞台にした郷愁と薄気味悪さを描いた短編。『小舟のほとりで』は、この本の中であたしが一番好きな、すねた息子とそれをなだめる母親との会話を中心とした短編だね。」
「うん」
「とにかくうまいの。もう、ため息がでるくらい、一生サリンジャーだけ読んでいたいと思わせるくらい、巧緻にたけた作家なの…まあ、それが高じると、この作家、この現実世界の読み取り方を理解している、また、それを読んで感動しているおれは、世間の気づかない現実の正体に一歩ふみこめた、目覚めた人間なんだ!と、勘違いする読者も出てくるようなところもあってね…」
「そうなの?」
「『ライ麦畑でつかまえて』なんかに影響されたアメリカの若者なんか、その口だと思うよ。あたしは、あれは、口語体で語られてるから、サリンジャーの大きな武器である、乾いた濃厚な現実描写が封じ込められていて、効果が半減しているから、そう大して面白いとは思っていないんだけどね…」
「そうなんだ。」
「そういえば、ジョンレノンを射殺した犯人も、その本を読んでいたんだよね。射殺後、警察が来るまで、その本を読み続けていたという伝説があるね。まあ、不思議でもなんでもないけど…」
「村上春樹が訳していたのもその本じゃない?」
「『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という原題どおりのタイトルでね。そう、あと、『フラニーとズーイ』も訳しているね」
「それも面白いの?」
「うん、面白い。中毒になるよね。まあ、サリンジャーと他の作家との違いは、日常とそこからたちのぼる不気味さを描いていても、どこか昔ながらの、ここにクライマックスを持ってきて…とか、そういう仕掛けがきちんとなされているってとこだね。もちろん文章そのものが人々を陶酔させる緻密で大きな仕掛けになっているって部分もあるけど。『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』を評して、筒井康隆が、『純文学にしては面白すぎる。その故から大きく評価されないのではないか』と言ってたね」
「そうなの」
「うん、わちゃわちゃした現実世界の混沌さを描きながら、ちゃんと、クライマックスを作っているというね…ところで、最初に、『バナナフィッシュ』のシーモアの自殺が、後々のサリンジャー作品に大きな影響を与えた、と言ったよね」
「うん」
「実は、『バナナフィッシュ』を基軸として、その、自殺したシーモアの謎というか思い出を語る、語り続けていく、というのが、その後のサリンジャー作品の大きな軸となっていくの」
「へえ」
「この『ナイン・ストーリーズ』の中でも、『コネティカットのひょこひょこおじさん』で出てきた死んだウォルトは、シーモアの弟だったということにされるし、『小舟のほとりで』の母親も兄妹たちのひとりだったってことにされるの」
「ふーん。別々の話だったのが、実はつながっていたってこと?」
「そう、『ナイン・ストーリーズ』を書いてるときにすでに考えてあったのか、あとからそういう事にしたのかは定かでないけどね…それで、『大工よ』は、シーモアの弟がその婚礼の思い出を語るという形式になっているし、『フラニーとズーイ』も、その兄妹が主役の話だし…」
「全部つながってくるのね」
「そして、シーモアは、その兄妹たち全員に、詩や芸術を語り、人生に大きな、偉大な影響を与えた人物ってことになってるのよね」
「へえ」
「そのシーモアの語る芸術論ってのがまたユニークで…中国の古い詩やら、日本の一茶の句やら、とにかく西洋にはない『ニセモノでないホンモノ』を示すものであったとされるのね」
「ふーん」
「そこがまたサリンジャーのうまいところで…読者はすっかり煙にまかれて、幻惑されて、人によっては、シーモアをもはや神格化してしまうような仕掛けになっているのね」
「そうなんだ」
「サリンジャーに影響された読者たちは、ある日を境にぴたっと作品を発表しなくなった作者について…そして、その隠遁とも言える、世の中との交流をぴしゃっと断ち切ってしまった生活ぶりについて、何故そうなったのか、ああでもない、こうでもない、と、様々に考察することになるのね。あたしが知ってるだけでも、サリンジャーの研究本は山のように出ているよ。『サリンジャーをつかまえて』、『サリンジャーを追いかけて』、『わが父サリンジャー』、キンセラの『フィールド・オブ・ドリームス』にはサリンジャーが重要な登場人物の一人として登場するし、最近の映画では、『ライ麦畑で出会ったら』は、サリンジャー好きのファンが彼の足取りを訪ねていく話だったね」
「ふーん。それも全部読んだの?」
「全部は読んでないけど、大方は読んだかな。そういう探索癖をそそるところが、…そして、それによって探索者もサリンジャー的世界の一部になれたかのような錯覚を与えるような魔力が、サリンジャー作品にも、作者そのものの存在にも、あるのよね。まあ、作者本人にとっては、迷惑なだけかもしれないけど」
「ふーん」
「ところで、この、サリンジャー作品の、あまりにも良く出来過ぎているがゆえの、罪の部分というのも指摘されててね…」
「うん?」
「小谷野敦の『聖母のいない国』で言及されてたんだけど、サリンジャーの妙技が、あまりに上手かったため、その後のアメリカ文学を、駄目にしてしまった、「ガキの小説」にしてしまった、というのね」
「へえ」
「彼ら、サリンジャーの亜流というか、追随者ってのは、大嫌いな現実を描写の洪水によって、一種、逆・桃源郷にしちゃっているその手法をそのまま受け継いでいるわけね。で、それで、多くの作家が、この麻薬中毒的な手法にのめりこんでしまったと。」
「うん」
「今も大手を振っている、村上春樹なんかもそうだ。この責任を、サリンジャーはとるべきだった、というのね」
「へえー」
「でも、そんな事いわれたって、作者も困るよね。単に、サリンジャー以上にこの手の小説を上手く書ける作家が、以降現れなかったのが悪いんであって…」
「そうねえ」
「まあ、でも、サリンジャーのいいところは、最終作である『ハプワース16、1924』の中で、少年時代のシーモアに、こう言わせているところね」

水泳の時間、静かに湖で泳いでいたらいきなり思い出したんだ。(略)あることに思いあたって、目を丸くしてしまった!突然、何の前ぶれもなく、自分がアーサー・コナン・ドイル卿の作品は大好きなのに、大作家ゲーテの作品はあんまり好きじゃないことに気づいたんだ!(略)ぼくは大作家ゲーテに心酔しているなんてことはまったくなく、一方、アーサー・コナン・ドイル卿―彼の作品―への愛は絶対に間違いない!(略)真実をかいまみてうれしくてたまらず、もうすこしで溺れてしまうところだった。

「つまりは、日常を象徴にまで高め、無機質に語っていく…そして逆説的・桃源郷を作っていく、サリンジャーにしたって、おハナシの…物語の力ってのを、最重要に信じていたってことね。これ、サリンジャーを語る上で、ひとつの大きな要素だと思うなあ」

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