「アポロンの島」(小川国夫)

―コニャックをもう一杯くれ…。子供か…、子供を見たらもう駄目だな
―本当ですね旦那
―映画だって、子供が出てきたら、もう駄目だ
―可愛いいですね、旦那さんは子供さんはおいくたりで…
―一人あったんだ、無くしちゃったよ…
―それは、お辛かったでしょう…
(略)―コニャックをもう一杯くれよ
―へえ…失礼ですが、旦那は拳闘家で…
―わかるかな…
―どうも御様子で…
バーテンがそう言うと、ジャンガストは、何かを見詰めながら、笑った。

「今日の本は、小川国夫『アポロンの島』だよ!」
「ふーん。何だか、地味そうな感じだね」
「まあ、純文学だから、地味って言えば地味なんだけど、これは、あたしが高校時代に、どハマりした本なんだよ!もう、何べん読んだかわからない」
「へえ」
「短編集というか、掌編集だね。小川国夫の実質的なデビュー作であり、最初は自費出版で出して、数年間誰の目にもとまらなくて、このまま埋もれていくのかと思われたものが、ある日突然、島尾敏雄の書評欄で激賞されて、一般の目に触れるようになったんだね」
「ふーん」
「島尾敏雄はこんな風に言ってるね」

形容を抑制し、場景と登場人物の外面的な動きを即物的に写生し、透明な使い方によることばを、竹をたてかけるぐあいにならべただけなのに、その字と行の白い行間からかたりかけてくるなにかに、ひきつけられた。(島尾敏雄『一冊の本』)

「へえ。堅苦しい感じじゃないの?」
「全然そんなことないって。でも、一行一行をおろそかにできない書き方だから、読み飛ばしは出来ないよね。あたしも、この本の一篇一篇を、かみしめるように、しみじみと味わいながら、読んでいったな」
「じゃあ、いわゆる徹夜本じゃないんじゃいの?」
「それはまあ、そうなんだけど、いったん惹きつけられると、トリコになってしまうような魔力がこの本にはあるのよね。あたしみたいに、つぎつぎと短編を、ああ、これは良かった、これも良かった、と、旅をするように、読み進んで行って止まらなくなっちゃう人もいるんじゃないかな」
「ふーん」
「冒頭に引いたのは、この本の中の『貝の声』という一篇なんだけど…。主人公、というか、作者よね、その、作者である青年が、ヨーロッパを単車で放浪していたころの話ね。とあるバーに立ち寄って、その店の隅にいたんだけど…」

ジャンガストは、夕刊を読んでいる浩の横顔を、見詰めていた。バーテンはそれが気になったので、
―安南人ですね、と言った。

「その数日後、また主人公である浩がとあるバーにいると、件のジャンガストがちょうど店に入ってきたの。」

浩はバーの入口にジャンガストを認めた。ジャンガストは、アメリカの水平が外へ出るのと入れ違いに、ドアに手を触れないで、バーへ入った。彼は入る時には目を伏せていた。彼は浩の前の席へ来て、浩を見下ろしながら、向き合いに座った。彼は顔をいびつにして、しばらく室内を眺めていた。そして浩を見た。
―ヴィエトナム人かね…
―いや、日本人です
―ヴィクトリア人と日本人はどう違うね…
(略)―おい、コニャックをコップで二杯持って来い、とジャンガストが給仕にいった。そして、浩を見た。浩は微笑した。浩は二人の間で何かが毀れたような気がした。
(略)―俺はあんたにそっくりのヴィエトナム人を一人知ってた。(略)青年だよ、見習いだったんだ。俺の女房と出来たんだよ。

「ジャンガストは、もと美容師だった。そして、子供が死んだあと、女房に若い男と駆け落ちされていた。」

―今じゃ、女房と、ヴィエトナムの色男がパリでやってるよ、美容院を…。厭な街だ
―僕は、一つ失くしたら、たくさん拾えって事を知っています、と浩はいった。そして、空虚なことをいった、と思った。
―知らんね…、でもいい事を聞いた。有難う、とジャンガストがいった。(略)
―あんたは優しいな、とジャンガストがいった。浩は引っ込みがつかなくなって
―優しいかな…と思わずいった。
―そうとも…、でも俺は一つ失くしただけじゃないよ。六つになった女の子も海で失くした。波の合わせ目に入って、息が出来なかったのを、俺は見ていたんだ

「ジャンガストの告白…というか、独り言は続く…。浩は、自分がその聞き手になったことに若干とまどいながらも、二人は杯を重ねていく…。」

―(略)海で死ぬってことは簡単だ、さっと水の中へ消えて、後はきれいなものだった…。俺は、胸が潰れてしまった、と思った。こんな呆気ないことであるはずがないって、わめいたよ…。トゥーロンの海軍にいた時、俺は一人、隊列から離れて、旗の方へ歩いて行った、俺はそうする自分をよく知っていたんだ…、マリー・フランスのちびが旗を振っているのが見えたんだ…、そうしたら、医者は、俺のやったボキシングのせいにしたよ、だれがボキシングで頭が狂うもんか…、あんたはあいつをやるかね…
―やらないんだ
―そうかね、あいつはものを忘れるには都合がいい、酒、ボキシング、それから家では小鳥でも飼うことだよ

「……」
「どうしたの?」
「いいわー、やっぱりいいわー、この短編、大好き」
「これでおしまいなの?」
「そう、あとは読者の想像力にまかせる、と言った感じで、背景の描写も、心理描写も、最低限におさえられているの」
「そうだね」
「それでいて、この他の短編にも言えることなんだけど、ヨーロッパ南部の、くっきりした抜けるような青空とか、光と影の交錯する独特の風景とかが、必要最小限の文章で、見事にその空気感をあらわしてるの。読者は、自分があたかもその風景を眼前にして、作者といっしょに彷徨しているかのような感覚におちいるのね」
「ふーん」
「ストーリー上の起伏も極限まで抑えられてて、まるで、眼前につぎつぎと繰り出されている光景が、読んでいる自分に直接体験させられているようね気分になってくるのよね」
「へえ」
「まあ、だから、逆に、評価しない人から見れば、単なる作文じゃないか、見たまま感じたままを書くなんて、工夫がない、なんて感じに見られがちなのかもしれないけどね」
「ふーん。でも、お姉ちゃんにとっては、そうでもないと」
「うん。見る事、感じる事だけを、自分を信じて、自分の感じ方だけを信じて、生きていってもいいんだ、という、普段、自分というものの意味が分かんなくなっているような人には、大きなはげましのエール、というか、自信みたいなものも与えてくれる一冊じゃないかな」
「へえ」
「まあ、作者にしてみれば、そういう意識はなかったのかもしれないけどね。あくまで、自分というフィルターを通して、真に感じたもの、それだけが真実、という皮膚感覚を貫いた人だと思うね」
「そうなんだ。それで、この人の他の本も読んだの?」
「うん、それはね…いちおうは読んだんだけど、買ったけど読み切れてないのが案外あるの」
「どうして?」
「うん、『生のさ中に』とか『悠三が残したこと』『或る聖書』『彼の故郷』あたりまでは読んだんだけど…。やっぱり、一人の視点で風景描写や印象を淡々と次々語っていく手法ってのは、どうしても同じようなものになりがちだし、はっきりしたストーリーがないってのも、あたしみたいな俗人にとっては、ちょっと物足りないかと思っちゃったのよね」
「そうなの?」
「新聞連載だった『悲しみの港』なんかは、ストーリーもあり、小川国夫独特の情景描写もあり…で、面白かったんだけど、他のは、ちょっと、一見さんには、どうかな、と思えるのが多くて…やっぱり、人に薦めるなら、この、デビュー作であり、不滅の輝きを持つ一冊である、『アポロンの島』だね」
「ふーん」
「小川国夫の小説って、例えばこんな感じで終わるのよ。少年である主人公が、人生に疲れた若い叔母と静かな会話を交わしたあと…」

浩が浜のほうを振り返ると、(略)波頭が流れていた。それは、今までよりも速くなっていて、馬が群がって、斜になだれ込んで来るようだった。(略)無数の馬がつづいていた。それは、浩の正面へ押し寄せようとしながらも、丁度斜面にいるように、南へ南へと流されていた。(「速い馬の流れ」『海からの光』より)

「ふうん、風景描写ね。これで終わりなの?」
「そう。極限まで、説明を省き、見たままのものしか語らず、あとの解釈は読者にゆだねる、っていうね」
「はあー」
「この『速い馬の流れ』は、車谷長吉の選んだ日本の傑作短編集にも選ばれた名編とされているんだけど…で、こんな感じの短編がつづくもんだから、読者としては緊張して…ちょっと疲れちゃったの」
「ふーん」
「思うに、小川国夫の文章って、ある意味、祈りの言葉、っていうか、キリスト教でいう、『祝詞』(のりと)なのよね。自分の見るものすべてのなかに、神を見出し、聖なる祝詞を捧げる、っていう…。『祝詞』だから、際限ってものがないのよね。自分はただ、ありとあらゆるものに、『祝詞』を捧げ、見えないものへの希求の念を伝えるっていう…。だから、いつまでたっても、自分以外の者へ向かっての『祈り』でしかないから、とめどもなく言葉と風景だけが出てき続けるだけっていう…。まあ、あたしがそう思っただけだから、まちがってるかもしれないけどね。それに、ずーっと付き合っていくのは、進歩もないし、ちょっとついて行けなくて、読むのを中断しちゃった本もあるね」
「そうなの?」
「でも、再度言うけど、この『アポロンの島』は、冗長な点もないし、小川国夫の一番いい面が出た、大傑作だと思う。いまは講談社文芸文庫から出ているし、hontoで電子書籍でも出てるから、興味を持ってもらえた人には、ぜひおすすめだよ!」

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