「死の家の記録」(ドストエフスキー)

「今日はちょっと読み応えのある本だよ。ドストエフスキー『死の家の記録』」
「えーっ?ドス…ドストエフスキー…。なんか、ガッチガチに重くて、地味で、つまらなそうなんだけど!」
「そうね。いつも紹介してる本とは、まったく別物といっていいかもね。重厚というか。ところで、ドストエフスキーの作品って、なんか読んだことあるの?」
「バカにしないでくれる?あるよ…マンガだけど。手塚治虫の『罪と罰』ってやつ…」
「まあ、そうよね。ドストエフスキーの作品って、長編が多いし、ロシア人の登場人物の名前が呼び方がまぎらわしくって、読むのにそうとう苦労するよね。まずマンガで読むのは正解だと思う」
「そうなの?」
「なかでも、手塚治虫の『罪と罰』は傑作よね。面白かったでしょ?」
「うん、まあまあ面白かった」
「ドストエフスキーの作品って、ドラマチックに出来てるから、手塚治虫みたいな腕の確かなマンガ家がうまく料理すると、ホントに面白い作品が生まれるよね」
「でもねえ…これ、ホントに面白いの?徹夜してでも読みたいと思えるほどに?」
「うーん、まあ…人によるだろうけど、あたしの場合は、後半部分からは、もう、一気読みだったな。これは、ドストエフスキーの、ある意味珍しい私小説なんだよね」
「私小説?」
「まあ、ドキュメンタリーといってもいいかな。ドストエフスキーが実際に監獄に入ったときの体験を、そのまま書いているのね」
「監獄に入ってたの?」
「そう、社会主義者のサークルに入ってたということで、サークルに潜り込んでいたスパイに密告されて、仲間ごと検挙されたのね」
「ふーん」
「ドストエフスキーにとっては、社会の変革こそ、この腐敗したロシアを救う道と信じて、理想を追い求めていたのね。しかし、当時のロシア皇帝にとっては、許しがたい政治犯と断罪されてしまった。そして、裁判で死刑判決を受けるのね」
「いきなり死刑?」
「そう、そして、他の政治犯と共に、銃殺用の柱に縛り付けられて、死刑執行の瀬戸際までいくの。ところが、その直前に、皇帝からの恩赦が伝えられて、結局、四年間の懲役刑になるのね。この恩赦は、あらかじめ決まっていたもので、皇帝による猿芝居だったわけなんだけど。」
「ふーん」
「でも、いったん死の恐怖を味わったドストエフスキーにしてみれば、そのショックはたまったもんじゃないよね。のちの作品にもこの体験は繰り返し出てくるの。『白痴』とかね」
「そうなんだ。なかなか、ドラマチックな人生だね」
「ドストエフスキーは、こうして、足に拘束具を嵌められ、囚人たちの集まりうごめく、オムスクの要塞監獄に収監されることになる…そして、それまでの、作家としての自由も奪われ、耐えがたい毎日を送ることになる…。そこで出会った囚人たちの生態、奇妙な行動などを、ドキュメンタリータッチで描いたのがこの作品なのよ」
「ふーん」
「たとえばそれは、こんな形で始まるのよね…」

総体的に言って、ここに住む人々は(略)陰気で、ねたみ深く、おそろしく見栄っぱりで、威張り屋で、怒りっぽく、そのうえ極端に体裁屋だった。(略)誰もが、外見をどんなふうに保つべきか、ということに腐心していた。
「あなたは貴族で、彼らとはちがうということが、彼らにはしゃくなんですよ。あなたを辱めて、見下してやりたくてうずうずしてるんですよ。あなたはこれからまだまだ不愉快な思いをすることでしょう。(略)これに慣れるためには、ものに頓着しない冷たい心が必要です。(略)」

「ドストエフスキーは、そこでさまざまな、囚人たちの奇妙な性向に向き合うことになるの」

さびしさを忘れるために、とつぜん(略)底抜けのばか騒ぎをやらかしたくなるのは、すこしも不思議はない。とはいえ、(略)一日できれいに使い果たすという、ただそれだけのために、(略)何か月もせっせとはたらき、つかい果すと、またつぎのばか騒ぎまで、何か月も精を出して働いているのを見ると、(略)なんとも妙な気がした。(略)自分が酔って『浮かれている』ところをなるべくみんなに見せびらかす、そしてそれによってみんなの尊敬をかち得るのである。

「囚人のなかには、穏やかで清廉潔白で、なぜこのような人が殺人など犯して服役しているのか不可解な人物もいた。」

わたしはときどきこの老人と話したが、こんな善良な、心のやさしい人間には、これまでほとんど会ったことがなかった。(略)囚人たちは彼をおじいさんと読んで、決して彼を辱めるようなことはしなかった。(略)この老人に、しだいに、ほとんどすべての囚人が金の保管を頼むようになったのである。獄内の人間はほとんどが泥棒だったが、、どういうわけかみんな言合せたように、老人はぜったいに盗みのできる人間ではない、と信じたのだった。
末弟のアレイはまだ二十二歳になったかならないかで、(略)彼の美しい、陰のない、利口そうで、しかもやさしい素朴な顔は、ひと目見たときから私の心をひきつけた。(略)彼は誰ともいさかいをしたことがなく、誰からも好かれ、可愛がられていた。(略)彼が出獄した日のことは、わたしは永久に忘れられない。(略)いきなりわたしの首に抱き着いて、わっと泣き出した。(略)「あんたはおれを人間にしてくれたんだ」

「貴族出身のドストエフスキーは、ここで初めて、生の、下層階級の人々と触れ合うことになるのね。その衝撃は、のちのちまでも、彼の作品内に影響を及ぼすことになった」

金というものは(略)監獄ではひじょうに大きな意味と力を持っていた。(略)獄内ですこしでも金を持っている囚人は、ぜんぜん持っていない囚人の十分の一も苦しまずにすんだ。(略)この威張るということ、(略)自分には他人が思うよりも何倍も自由意志と権力があるのだということを仲間に見せ、せめて一時でも自分もそう思い込むことを、おそろしく好んだ。
しかしわたしは、自分だけはのけものであることに気づいた。(略)「まるで使いものになりゃしねえよ!」これは、むろん、故意にしくんだことだった。みんなの気晴らしになるからだ。貴族出の者には思い知らしてやる必要があった。
(略)わたしは、なるべく素直にして、自分の自由を守るようにし、わざわざ無理に彼らに近づこうとするようなことはぜったいにしないが、しかし、先方から近づきたいと望むならば、こばまない、という態度を決めたのである。(略)それが彼らの考える貴族というものだった。(略)もしわたしが、(略)お世辞を言ったり、調子を合わせたり、なれなれしくしたり、(略)しだしたらー彼らはすぐに、(略)臆病で、おびえているからだと考えて、わたしを軽蔑するにちがいない。(略)『全部こんな日なんだ、こんな日ばかりなんだ!』
わたしはすこしずつ交友の範囲をひろげていった。しかし、自分では友だちを作ろうとは考えていなかった。(略)最初にわたしを訪ねて来るようになった一人は、ペトロフという囚人だった。(略)Mは、わたしたちの交際を知って、わたしに注意したほどだった。(略)「どんなことでもやりかねない男なんだ。(略)ふとその気になったら、あなただって殺しますよ、あっさりね、鶏でもひねるみたいに。眉ひとつうごかすでのないし、悪いことをしたなんてこれっぽっちも思いやしませんよ」
彼がわたしに愛情をさえ抱いていたことはたしかで、、これにはわたしもすっかり面食らった。(略)特別のあわれみを、わたしに感じていたのか…わたしにはわからない。
その後わたしは、もっとも凶悪な殺人犯に対してさえ、見方がだいぶ変わった。(略)この男はしずかに、おとなしく暮している。(略)彼は不意に身体の中の何かがぷつりと切れたようになり、(略)敵をナイフで突き刺す。(略)これは犯罪ではあるが、わかる。(略)ところがそれから(略)行き当たりばったりに殺す。(略)おもしろ半分に殺すのだ。(略)自分で自分に感じないではいられぬ恐怖からくる胸がしびれるようなこの快感を、心ゆくまで楽しもうという気持ちに突き上げられているかのようだ。(略)そしてこの自棄のポーズそのものがどうかすると早く刑罰を望むようになる。(略)こうした気分やポーズがつづくのは、たいてい処刑台までで、(略)彼は急におとなしくなり、怖気づいて、(略)処刑台の上ですすり泣いて、-民衆に許しを乞う。

「もう、人間性の生の部分を、これでもか、これでもか、と、その矛盾性や滑稽さ、最底辺の野卑さ、その中にもある民衆の無垢さ、ありとあらゆるものをひっくるめて、その中にドストエフスキーは、巻き込まれることになるのね。それが、読んでいるこっちにとっては、ズーンとくるわけよ。奇人変人、つぎはどんなどす黒い人物が現れるのか、それにドストエフスキーは、どう付き合っていくのか、この関係性は、いつ破綻を迎えるのか、そのサスペンスにもドキドキしちゃうわけよね」
「へえー」
「なかでも、年に一回の芝居大会の描写とか、浴場での芋を洗うような乱痴気騒ぎとかの描写は強烈よね」

正直なところ、わたしはそれまで、単純な民衆の楽器がこのような音を出せるものだとは、考えた事もなかった。音の調和、合奏の妙、特にモチーフの本質を心でつかみ、それを伝える音楽性は、ただただおどろきであった。
彼は自分の役をおどろくほど正確に演じた。(略)この努力と、この研究に、びっくりするような、生地のままの陽気さ、素朴さ、つくらぬ素直さを加えてみるがよい、(略)彼が大きな才能をもったほんとうの生まれながらの俳優であることに、一も二もなく賛成するにちがいない。フィラートカをわたしはモスクワとペテルブルグの劇場で何度か見たが、わたしは断言する―フィラートカを演じた首都の俳優たちは、いずれもバクルーシンに劣っていた。

「貧弱な舞台で、ただ一瞬の、切実な楽しみ―そして、『どうだい!囚人だって、こんなにもすごい芸当が出来るんだ!』と、観衆総立ちで大喜びで熱狂する…そこには、もう殺人犯も政治犯もない、ある種異様な一体感が生まれる」
「ふーん」
「そして、監獄内といっても、獄卒に対する賄賂や、囚人でありながら金貸しを行って金持ちになっているもの、密造酒をとりあつかう闇の業者など、いろんな世間とのつながり…というか、抜け道があったのね」
「そうなんだ」
「もちろん、囚人であるからには、獄卒の監視のもと、時には罰をくらって、鞭の刑を受け、中には死亡するものも出てくる」

現にいま、これを書いていると、一人の死に瀕した肺病患者の姿がまざまざと思い出されてくる。(略)それから十分ほどして彼は死んだ。戸をたたいて、衛兵に知らせた。(略)チェクーノフがそこに立っていたのを、わたしはおぼえている。(略)下士官に死体を示すと、急いで言った。
「こいつだっておふくろがいたんだ!」

「引用が多すぎたので、ここらへんで止めるけど、他にも、獄卒たちの描写も面白いよ。嗜虐的な性格の執行官が、受刑者にさんざん許しを乞わせて、あげくに最もひどい鞭の刑を言い渡すことに喜びを覚えたり、嗜虐的でない善良な執行官ですら、許しの哀願を受けないと不機嫌になって鞭の回数を増やしたり。」
「へえー」
「また、袖の下を受け取って…しかも、金持ちからは相当のワイロを受け取って、鞭を痛くない程度に加減してやる…。とかね」
「ふーん」
「そして、いよいよ四年という歳月が過ぎて、ドストエフスキーは、出所の日を迎える…これがまた、感動的なのよ」
「そうなんだ」
「いままで苦痛で仕方なかった日々との別れ、深い親愛の情を感じていた仲間たちとの別れ、ここまでくると、しみじみしちゃうよね」
「へえ」
「正直、この本、最初のほうは、ちょっと読むのがダルくて、ここで取り上げるのはどうしようかな、と思っていたとこもあったのよね。でも、後半部分からの一気読みに引きずり込まれて、まあいいか、と思って紹介しちゃった。たまには、こういう重い本も読んでみるのもいいかもね」
「ふーん。ドストエフスキーって、長くて深刻でなんか読みづらい作家かなと思っていたけど」
「うーん…たしかに、その指摘は、まあ、当たっていない事もないかな、とは思うけどね…」
「そうなんだ」
「あと、この本の解説を読んで知ったんだけど、同時代の文豪、ツルゲーネフやトルストイなんかも、絶賛してるのね。ツルゲーネフはこの作品を、「ダンテに匹敵する」と書いているし、トルストイは、世界文学の名作の数冊の本の中に数え、「彼のさりげなく書かれた一ページは現代の作家たちの数巻にも匹敵する。」と絶賛しているね。
「へえ」
「この『死の家の記録』に現れてきた人物像の原型は、そののちに書かれたドストエフスキーのさまざまな作品に投影されているのね。つまりこの作品は、ドストエフスキーの原風景になっていたっていうこと。ドストエフスキーの全作品のなかでのこの作品の評価は、高くないかもしれないけど、あたしにとっては、コンデンスされた原液のような、これぞ、本物!と言いたくなるような作品だね」
「ふーん」
「実際、あたしも、『貧しき人々』『罪と罰』『白痴』『悪霊』『虐げられた人々』『カラマーゾフの兄弟』といちおうは読んだけど、それらの長編は、…ストーリーの面白さでひっぱるんだけど、…特に、『カラマーゾフの兄弟』のラストの子供たちの行進なんか、感動したんだけど…『死の家の記録』にくらべれば、ちょっと薄味かな、という気はしたよね」
「そうなんだ」
「ドストエフスキーの作品って、面白い、サスペンスフルなストーリーの合間合間に、情動失禁のような告解の長ゼリフが延々続く、という感じのものが多くてね…まあ、それは、自身も癲癇もちだったドストエフスキーの魂を絞り出すような告解なんで、それに感動することはするんだけど…そこに大感激する人もいるんだろうなあ、とは思うけど…」
「うん」
「この『死の家の記録』に比べると、やっぱり作りモノめいてて、衝撃度がちょっと密度的に足りないんじゃないかと思っちゃってね」
「ふーん」
「あと、キリスト教とか、ロシア正教の教えに詳しくないと、何を悩んでいるのか、ちょっとピンとこない部分もあるんじゃないかなあ…って…。それはとにかく、この『死の家の記録』には、そういう長ゼリフもないし、ドストエフスキーという世界的作家の、コンデンスされた原体験がみっちり詰まった、超傑作だと思うなあ…そういえば、黒澤明が、ソ連で映画を作ることになったとき、『デルス・ウザーラ』にするか、この『死の家の記録』にするか、という選択があったみたいね。黒澤明の『死の家の記録』も見たかった気がするな」
「なんか、今日は、いつものエンタメ路線から、大きく外れちゃったみたいだね」
「まあ、たまにはいいじゃないの。時には、こういう、重い本を読んでみるのも、人生の財産になると思うよ。じゃあ、またね!」

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