「おれたちと大砲」(井上ひさし)

行きつけの蕎麦屋の暖簾をくぐったときだった。(略)
「泣いている人だってたくさんいるんだから。(略)慶喜様がお可哀相でねえ。(略)」
「どうかなさったどころじゃあない…」
親爺さんはくすんと鼻を鳴らした。
「慶喜様が将軍の位からお退きになったんだ。(略)京の二条城でそうおっしゃったそうだよ。(略)これからは一切、徳川家から将軍は出さない(略)すべて天子様におゆだねいたします、以後自分はただの一大名として生きていくことにします、と自ら進んでおっしゃったという…」

「今日は、井上ひさしの『おれたちと大砲』を紹介するよ!」
「井上ひさしって、ずいぶん分厚い本を何冊も出してる人だよね。本屋の棚でも、凄く場所とってるから、覚えちゃった」
「そうねえ。特に晩年は、辞書みたいな長編小説を何冊も出してるからね。買ってあるけど、まだ読めてないのよね、これが。まあ、その理由については、またあとで触れるけど…」
「なんか、憲法を守れとか、人権を守れとか、お堅い本が多いというイメージもあるな。小難しそうっていうか」
「うーん、晩年の小説や戯曲なんか、特にその思想があらわれてきていて、ちょっとまあ、かた苦しかったかもしれないね。いわゆる岩波文化人というか…」
「そうねえ。本のほうも、よほど時間と手間をかけないと、おいそれと読み始められないってかんじかな」
「でも、中には、そんな思想よりも、ストーリーやテンポの良さのほうがずっとまさってて、読みだしたらやめられない、徹夜本の大傑作もあったりするんだよ。今じゃ井上ひさし=護憲派の偉い人、みたいなイメージが大きいかもしれないけど、元々は、超絶的なお話づくりのうまさと、粋さで鳴らした、大娯楽小説作家だったんだよ」
「へえ。でも、著作がいっぱいありすぎちゃって、何から読めばいいのか、わからないな」
「そうだね。処女作である『ブンとフン』から読もうとしてる人には、とりあえず、それはやめといたほうがいいんじゃ…とは言うね。あれは、放送作家時代に書いたラジオドラマを小説化したものだけど、宇野誠一郎の音楽が入ってないと、面白くもなんともない、ミュージカル・ファンタジーだからね。やっぱり、理想的なとっかかりは、直木賞を獲った『手鎖心中』かなあ」
「そっちのほうは、取り上げないの?」
「そうだね。まあ、短編なので、紹介しだしたら、オチまで言ってしまいそうで、読む人の楽しみを奪っちゃいかねないかな、という心配もあるし、あと、お話として少し出来過ぎかなと思える様なところもあるし…でも、『手鎖心中』の本に併録されている『江戸の夕立ち』は傑作だよ」
「ふーん」
「井上ひさしって、文章読本とか文法の本を出し始めてからは、かなりくどくて長い小説の書き手になるんだけど、中期の作品の中には、テンポよし、ストーリーよし、オチも決まって、深い余韻を残す…といった傑作が色々あるんだよ。今日紹介する『おれたちと大砲』もその中のひとつだよ」
「ふーん。冒頭に引いた文章からすると、幕末の話なの?」
「そう、幕府がいよいよ倒れるかという瀬戸際に来ている頃の話ね。出身が御家人くずれで、いまは貧乏をかこっている、二十三歳の若者、主人公の『おれ』には、将来いつか将軍様のお役に立つ身分になりたい、という、灼けるような嘱望の思いがあった…」

尿筒を捧げ持って将軍様の用足しの御用を勤めるものを、正式には「公人朝夕人」と称する。鎌倉以来のれっきとした家柄だ。(略)お上の御用便のお役にも立てずに朽ち果てるのは、(略)生まれてきた甲斐がない。

「『おれ』は、将軍が小用を催したときに、すかざず側に付き従い、尿筒という竹の筒を将軍の男性器にあてがい、服を着たまま排尿の用を足させる…そういう、名誉ある役割を代々受け継いでいる家柄の出だったのね。それが、いまは、二流の遊郭の下働きとして、客のお大尽の排尿にこき使われる毎日…。いつかはなろう、あすなろう、の精神でいたところ、本家の隠居から、思わぬことを告げられる」

「おまえは弓馬槍剣に通じておるか。(略)どうやらご時勢が変わってきたのさ(略)腕の立つのを起用してもらいたい、というのさ。万万が一、上様御用足し中に刺客が突進してきたらどうするか。(略)最後の楯とならねばならぬ。(略)剣の一芸くらいは人並みに心得ておくことだ。そして、陸軍所の試験を受けてみなさい」」

「『おれ』は、陸軍所の歩兵組を受験することに決めた。折も折、その頃出会ったのが、かつて子供のころ、一緒につるんでいた仲間の重太だった。客の草履を投げて空中を舞わせたあと、足許へぴったりと揃え落とすことのできる名人で、やはり、彼も御家人くずれで、いつかは将軍様のお役に立ちたい、それには、まず御家人株を買い戻したい、と渇望する似た者同士だった」


重太の家は代々、将軍様の草履役で、(略)「投げ草履」というやり方をとる。(略)将軍様を直に見てはいけないから、(略)お足許へ御草履を投げ申し上げる。むろん、投げた草履がぴたりと揃わないといけない。
(略)「必死でやってきたんですよ。だから自慢じゃありませんが、いま慶喜様のご行列のお供をしている現役の草履侍よりもあたしの方が技掚ははるかに上です。あとは御家人株を買い戻すだけです。(略)」
「さあ、果たして抜擢してくれるかな?(略)弓馬槍剣の心得もなくてはかなわぬ。若年寄、大目付はどうやらそういう方針のようだ」
(略)重太がわっと泣き出した。
「あたしは投げ草履ひと筋にやってきたんです。(略)どうすればいいんですか?」
(略)「泣くな、重太、おれと明日からどっかの道場に通おうじゃないか」(略)「そして陸軍所の試験を受けるのさ。(略)卒えればおれは木筒組、そしておまえは草履持。きっと将軍様のお役に立てるだろう」

「それで、連れだって近所の道場に入門するのだけど、そこは、弟子が一人もいない、貧乏道場、しかも、先生はまるでボンクラで、昼寝ばかりしている始末だったのよね」
「ふーん」
「そんなこんなの毎日、偶然の出会いから、一人また一人と、かつての幼馴染との出会いがある。いずれも、元御家人くずれ、貧窮の中でもがいている境遇だったのよね。一人は、将軍の月代をそる髪結之職の末裔、甚吉、もう一人は御駕籠之者の末裔、茂松。」
「へえ」
「かつては御家人のせがれ悪童四人組として、『黒手組』と名乗り、遊びまわっていた竹馬之友だったのよね。四人は意気投合し、そろって陸軍所の試験を受ける…試験は、簡単なものだった。しかし、今通っている道場の先生の名を告げた瞬間、試験官たちが顔をくもらせる」
「ふんふん」
「あげくに、陸軍所の試験には四人そろって落とされてしまう。何が原因かわからない。そんな折、冒頭にあげたような、将軍退位の報に触れ、彼らは、もう待っていられない、と、道場の先生の寝込みを襲って押さえつけて、隠してある木製の大砲を盗もうとするのね。その大砲で、蟷螂の斧にも及ばずながら、薩摩藩の軍船に砲弾を浴びせかけてやろう、と…」
「ふーん」
「かれらはついに決行に及ぶ。寝ている道場主を布団ごと縛り上げ、大砲を盗もうと。しかし…」

「お、おい、先生が消えてしまったぞ」(略)「…夢を見てるのかね」
「夢ではないぞ」(略)先生が、脇差の抜身をぶらさげて屏風のうしろから出てきた。
「直心影流の免許目録のうちに『蛇の抜けがら』というのがある」
(略)「じゃ、先生は本当は強いんじゃありませんか」
(略)部屋の隅に後退し、そこでがたがた震えていたおれがこう訊くと、先生は微かにふんと鼻を鳴らした。
「わたしがまだ中根常陸乃介芳信と名乗っていたころ、男谷道場の四天王だとか八剣士だとかいわれていたことがある。わたしが講武所の教授方になるずっと前のことだが、そのころはまあ使える部類に入っていたかもしれない」
(略)「そんなに強いんなら、日頃から強いように振舞ってくださいよ」
甚吉がいまにも泣き出しそうな声で言った。
「なのに、弱いふりするなんてのは狡いや。」(略)
「だまれ」(略)「何が狙いでわたしを縛ろうとしたのだ?」
(略)「じ、じつはなにもかも将軍様のお恨みを晴らそうと仕組んだことで…」

「先生」は実は、以前幕閣に武器の装備の貧しさについて意見したところ、忌避されて浪人となった元幕臣だったのね。彼らが陸軍所の試験を落とされたのもそのためで…。『おれ』が実は大砲で薩摩の船を撃ってやろうと企てたのだ、と、わけを話すと、

「強いて止めようというつもりはないが、少し頭を冷やして考えた方がいいのではないか」(略)「世の中というのは芝居小屋の回り舞台のようなものだ。(略)いかなる大人物でも徳高き聖人でも、(略)筋立てが進み変り、回り舞台が(略)まわり切ってしまえば下りなくてはならぬ。(略)噂によると、この九月、土佐藩の脱藩者で坂本龍馬という者が(略)今度の慶喜様ご退位の筋書きをものした作者らしい。(略)いいか、舞台はそういう先の見える者たちの出番になっているのだよ。(略)まあ、やりたいことをやってみるがいい。(略)私のようにうじゃじゃけて生きているよりはましなのだから」

「それで四人は、大砲を抱えて薩摩藩の軍艦が停泊する横浜へ旅立つのよね。火薬を詰め込んだ砲弾を作るため、花火職人の家に住み込み、策を練る…そんな毎日のなかで、また一人、こころ強い仲間とめぐりあう。もと『黒手組』の中で一番の秀才だった時次郎との出会いね。今はアメリカ人の経営する病院で代診をしている、常に英語の辞書を携え、留学が夢という。」
「ふーん」
「その辞書も病院も、すべて史実にあるもの。さて、そうこうするうち、時次郎のつてで、黒手組一同は、舶来の最新兵器、ガットリング砲の試射会場へ行くことが出来る。この試射の場面も、史実に基づいたもので、河合継之助なんかも見に来ているのね。」
「へえ。ちゃんと調べたうえで書いてあるんだ。」
「ガットリング砲の威力に驚いた『黒手組』たちは、今度はなんとかその武器を手に入れたい、と思い立ち計略を練る…と、ここまでが全体の四分の一くらいね。これから先もなんとか将軍慶喜の役にたちたい、薩長軍と戦いたいという彼らの計略と冒険と、珍にして妙な顛末が待っているわけよ。そしてそれは、京都の伏見の戦いや、江戸の彰義隊の戦いに深くかかわってくることになるのね。」
「へえー。あくまで史実に合わせてあるんだね」
「井上ひさしは、資料については、調べ魔といえるほどこだわる作家だからね…こっちは、史実の中で歴史に翻弄され、小狡く計略を立てては生き抜いていく『黒手組』たちの活躍を、心行くまで楽しめる、ってこと。そう、なかでも傑作なのは、京都・伏見の幕府の陣営に参加しようとして門前払いを食った時の、秀才・時次郎と幕府側武将とのやりとりね」

「あなたたちにはまだ黒手組をあれこれ批判する資格はありません」(略)
「な、なんだ貴様は?」
(略)「あなた方は黒手組をさんざん笑いものにした。しかし、黒手組の装備の貧しさを笑ったとき、あなたがたはじつは自分自身をも笑いものにしたのです。というのは、あなた方の装備も黒手組同様に貧しいですからね…」
「この明き盲め、どこを見ればそんなことが言えるのだ。おれたちはみな胴腹巻に刀、そして槍、あるものは鉄砲を持っている…」
「ぼくをして言わしめれば野戦砲の類いが少なすぎます。(略)聞きますが、仏蘭西伝習隊はこれまでどんな戦果を得ました?ほとんど皆無でしょう」
「これからだ、これから大いに働くのだ」
「それは黒手組も同じじゃありませんか。もうひとつ。(略)あなたは直参でありながら直参をはずかしめおとしめた。これは二代将軍秀忠様の元和令、すなわち武家諸法度にそむく大罪です」
「……」
「武家諸法度の『法はこれ礼節の根本なり』の次に掲げてある文章を覚えておいでだと思いますが、念のためにぼくが申しあげましょう。それは、『士は士を軽んずべからず。士、士を軽んずれば、その科軽からず』と、こうです」

「と、言い込めてしまうのね。あとは、さわりだけ触れるけど」

「幕府と薩長がもし戦えば、幕府の負けに決ってるぜ」
「どうしてだよ」
「天皇だよ。(略)天皇を握ったやつが勝つ。これは大鉄則なんだ」
(略)「ちょっ、ちょっと待ってくれよ」(略)「時次郎の今の意見を逆にとれば、玉が慶喜様の方につけば、慶喜様が必勝するってことになるんじゃないか?」
「理論上はそうなる。そこが玉が玉なるもののおもしろいところだ」
「じゃあ、もしもおれたち黒手組がその玉を握ることが出来れば、薩長はぐうとも言えなくなるわけだな?」

「そしてまた、つぎつぎと江戸に京に珍冒険が始まるってわけね。長くなってしまったから、ここらへんでやめるけど、冒険につぐ冒険、脱線につぐ脱線、最後は、大スペクタクルの大団円…と、大満足の徹夜必至のユーモア冒険時代小説なんだよ!」
「ふーん。読み応えありそうね。歴史に詳しくないと楽しめないってことはないの?」
「それが、ぜんぜん大丈夫なのよ。さっきも言った通り、作者は入念に資料をかき集めたうえで、誰にでもわかりやすく物語の中に織り込んであるし、そういう作者の腕前を信用してるから、読者は安心して史実とフィクションの入り混じった冒険世界を知らず知らず知識も得られながら、味わっていくことができるってわけ」
「へえ」
「ただ、残念なことに、この本、いまは絶版なのよね…。文春文庫で出てたから、古本は容易に手に入ると思うけど」
「なんか、最近そんなのばっかしだね」
「井上ひさしの本も、『手鎖心中』とか『モッキンポット師の後始末』とかを除いて、後期の、やたらに長い、くどくて固い本がいま文庫や電子でよく出回ってるけど、こういう入門編みたいな本もどんどん復刊してほしいね。もちろん、つまんなくはないんだけど、言葉の洪水というか、それ自身が目的であり作品世界の要みたいな大長編は、よっぽど時間のあるときじゃないと、挑戦しにくくてね」
「たとえば、どんなものなの?」
「うーん、『吉里吉里人』とか、『四千万歩の男』とかかな。『吉里吉里人』は奇想天外さは面白いんだけど、言葉の奔流による錯乱状態に自ら酔って酔いつぶれてみたい、と思う人でもないと、楽しめないんじゃないかな」
「そうなの?」
「いや、これはあたし一人の意見だから、他の人に聞いてみれば、いや、『吉里吉里人』こそ、最高、というかもしれないね。わからないでもないんだけど。『吉里吉里人』は、日本SF大賞、読売文学賞も取っているしね」
「へえ。評価という点では、そっちのほうが、世間的には高いんだ」
「そうも言えるね。ただ、あたしは、井上ひさしの、こういう初期のひきしまったストーリー、冒険あり笑いあり余韻あり、という娯楽小説の純粋な権化のような作品のほうが好きってことだけどね。井上ひさしについては、また、後日別の作品でトピックを立てるつもりでいるから、それも、待っててね。じゃあ、またね!」

(追記)2021年4月、ちくま文庫より、復刊されました!

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