「小舟の上で」(宮原昭夫)

「今日はちょっと、こじんまりとした作品を紹介するね。宮原昭夫の短編小説『小舟の上で』だよ」
「ふーん。その、お姉ちゃんが、今持ってる文庫本、タイトルが違うようだけど?」
「あ、これね、角川文庫の『男の日ごよみ』って本に、この短編は入っているのね。」
「それに、ずいぶんと古そう…いったい、いつ出た本なの?」
「奥付には、昭和五十二年と書かれているね」
「古っ!というか、古すぎ!どうしてそんなの見つけてくるの?」
「宮原昭夫には、もう一冊、紹介したい傑作があってね、そっちを先に読んで、この作者に興味がわいたから、これも、古本屋で見つけて、買ってきたのよね。今回取り上げる『小舟の上で』は、単行本だと、『石のニンフ達』に収録されているよ。でっも、やっぱりおススメは、この文庫本かな。『小舟の上で』は短編なんだけど、作者の私小説と言うかんじのシリーズもののひとつで、この『男の日ごよみ』は、その私小説群を時系列順に編纂したものだから、通して読むと、一種の長編小説としても読めるのよね。」
「ふーん。それで、徹夜するほど面白いの?」
「面白いのよ、これが…っていうか、これ完全にあたしの趣味なんだけど、この短編の出だしからして、もう、ビンビンに来るのよねえ」

このバーの表には、同じような小さな扉が二つ並んでいる。
酔客がまちがえて右側の扉を開けると、美女と美酒の代わりに傘立てとポリエチレンの芥捨てきりないので、彼はしばらく茫然としている。
もっと酔った客はそれにもめげず、靴を脱いで木の階段を上がってきて、二階の唐紙を開け、和田昭が妻の市子と差し向かいでお茶漬けなどをかっこんでいるのを覗き込んでしばらく考えている。
そんな時昭は、箸の手も休めず、
「あ、バーなら階段を下りて左のドアですよ」と軽くあごをしゃくってやる。昭たちがここの二階に間借りしてから、そろそろ一年を越そうとしている。

「うらぶれたバーの二階に、こじんまりとした巣を持った夫婦。この奇妙なシチュエーションが、まず、たまらないのよねえ」
「なんか、小さいころ遊んだ,秘密基地ごっこみたいね」
「まさにそうなのよ。この、貧困とちょっと奇妙な幻想のような隠れ家あそびみたいな魅力が、この短編を覆っているのよねえ。で、そこで繰り広げられる夫婦関係も、なんだか、おままごとごっこみたいな、奇妙な幼児性をもったものなの」

「さあて、やるわよ。あたし、やるわ」
天突き体操のような手つきをしている市子を横目で見下ろして、昭は怒りたいときに誉めなければならなくなったような精神衛生に悪そうなにこにこ顔をしている。
さっき退社ぎわの昭のものへ市子から電話があって、彼女が応募した或る新劇団の研究所から入所試験の合格通知があった、と知らせてよこしたのだ。
(略)劇団の授業は晩なので、市子は勤め先から帰ると晩飯もそこそこに出掛けてしまう。二人が共にとる食事は、したがって心せわしい朝食だけである。
(略)からきし料理を知らぬ市子は、まるごとの生のきゅうりに味噌をなすりつけたのと、さしみと、総菜屋のトンカツ、などという取り合わせの食事くらい毎度のことなのだが、今まで昭は、おや、案外いけるじゃないか、うまいよ、などと訊かれもしない先から急いで口走ったりしていたくせに、(略)どういうものか昭は自分の眉がきりきりとつり上げっていくのを感じる。
(略)ときには市子は、昭の晩飯を完全に忘れて出ていってしまうことがある。それもしんから無邪気に忘れているので、なおさら昭は救いようのない気分になる。
(略)そういう時に限って昭は、腹が空けば空くほどかえって意地になって何も食べずに市子を待っている。(略)何時間でも待っている。自分の苦痛が増せば増すほど、それだけ市子に対して優位に立つような錯覚におちいっている。

「ここんとこの描写がいいのよねえ。夫である昭は、さっぱり夜遅くまで帰って来なくなった妻にたいして、どういってやろうかとか、皮肉の文句を何時間も考えていたりするくせに、」

明け方ふと昭が眼をさますと、ぐっすり眠りこけた市子が、身体をちぢめてまるで親豚の乳房を探す子豚のように昭の胸に顔を押し付けている。昭は自分を恥じてしまって、おれは男なんだから、もっとしっかりしなけりゃだめじゃないか、もっと大きく妻を抱擁する態度が望まれるぞ、などとしきりに自分を叱咤する。

「主人公は、かつて創作の道を目指し、作家になりたいと同人雑誌に参加していた過去を持っていたのだけど、生活のために、あきらめていたのね。ある日、帰宅してみると、珍しく部屋あかりが煌々とともっている。部屋に入ると、妻がいる。」

「やあ、居たのか」と昭はもじもじとしたような優しいような声を掛ける。
市子はそのまま黙って座っていたが、やがて、それだけを言うために待っていた、と言わんばかりに、
「ポール・ゴーギャンはえらかった、わね」

そして、出ていってしまう。主人公は、押し入れの中から、秘密裡に隠しておいた、自らがかつて学生時代に参加していた同人誌のバックナンバーを探し出す。

それは昭が学生時代仲間と一緒にやっていた同人雑誌で、巻頭に麗々しくのっている小説が「ポール・ゴーギャンは偉かった」和田昭、なのである。

やっぱり小さな舟の上では、一人が機先を制して右に寄ってしまえば、もう一人は否応なしに左に寄らざるを得ない。(略)とにかく小舟の上ではなんといっても一足先に右へ寄ってしまった方が勝ちなのだ。立ち遅れた方はどんなにギャーギャーわめいたところで、いやおうなしに左へ寄っていくほかないのである。

そして妻は、とうとう芝居に熱中するあまり、勤めを辞めてしまう。貧困のどん底におちた主人公は、煙草銭にも困るようになり、

昭がいかにくよくよしても、給料日の前日あたりになると、うちじゅうの引き出しという引き出し、ポケットというポケットを探しても、総計二十五円きりない、などという事態に立ち至る。道端で市子が一円玉を拾ってきて、二十六円にして、インスタントラーメンを一つ買って、それが買えたという事がなんだか美しい奇跡のように思えてしまうのだ。

「この陋屋にくりひろげられる奇妙な夫婦生活、なんか愛着がわいちゃって、現実なのに、どこか夢みたいなあいまいな雲に包まれているようで、そりゃ本人たちは必死なんだろうけど、読む側としては、もう、ちょっとした夢見心地になるわけよね。嘉村礒多や車谷長吉の世界に似てるというか。妻も妻だけど、夫のほうも、大人になりきれない夢見がちな性格で、この二人がこれからどうなっていくんだろう、という興味で、本から目がはなせなくなるわけよ。」
「ふーん」
「この『男の日ごよみ』に入ってる他の短編を読んでいくと、この夫婦のそれからのなりゆきなんかも分かってきて、本当に興味深いのよ。古本屋かなんかでないと手に入らないと思うけど、ぜひ読んでほしいな。宮原昭夫には、思春期の少女たちを書いた短編もあって、それも、面白い。『縁』なんて短編は、そのラストで人生の過酷さをあざやかに描き出した傑作だと思うな。純文学なのに、はっきりした起承転結のストーリー構成があるのも、ポイント高いのよね。『風化した十字架』なんて、大ショックだったもん」
「この作者、いまは何してるの?」
「なんだか、地域の小説創作講座の講師を勤めていたのかな…もう、年も年だし、辞めちゃってると思うけど。この前紹介した『コンビニ人間』の村田沙耶香も、そこの生徒だったらしいよ」
「へえー」
「今回の記事を書くにあたって、参考にと思って、宮原昭夫の別の本、っていうか、エッセイ集『しょんべんカーブ』を読んでたら、次のようなフレーズにぶつかったのよね。」


ある種の人間は、みっともないことを隠したがるようなおのれの心の卑しさを自覚することが最もおのれの自尊心をきずつける、といった、妙にやっかいな精神構造を持っている。そんな人間にとっては、人目から恥を隠すことや、八方手をつくしてもみ消すことでは、何ひとつ物事は解決しない。(略)そんな時、彼はどうするか。彼は私小説を書くほかない。私小説によって、告白することで解放される…つまり告解だ。

恥をかいた時、(略)出来るだけそれを人目から隠す、という道が一般的であることは言うまでもない。(略)ところが、世の中には、隠すことでそれを解決しきることが、どうしても出来ないタイプの精神構造の人間がいる。おそらくそれは一種強迫神経症的なタイプなのだろうが、(略)恥を隠せば隠すほど、かえってそれが忘れられなくなり、四六時中それにとらわれて、ついには、なんとかしてそれから解放されなければ神経がこわれてしまう、という恐怖にとらえられはじめる。(略)それから真に開放される唯一の方法は、それを自分の手で(略)根こそぎ、さらけ出してしまうこと以外にはないのである。(略)私にとっては、精神なり神経なりの、目もくらむ空中綱渡りの最中、その私のバランスを崩し、まっさかさまに墜落させようとするものと必死にたたかって、きわどくバランスをとりもどす作業そのものが、創作というものなのだ。

この世がどうも肌に合わない。自分を含めた現実ぜんぶが、どうも自分にとってしっくりこない。それをなんとかして処理して生きていきたいとき、小説を書くことが必要になる。

「ね?なんだか、『コンビニ人間』の出現を予想してるかのような文章じゃない?もしかしたら、村田沙耶香さんは、こういう教えに真摯に向き合って、あの小説を書いたのかもしれないね」
「へえー」
「宮原昭夫については、また別の本で単独トピックを立てる予定だから、そのときまた解説するね!」

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