「エヴァ・ライカーの記憶」(ドナルド・A・スタンウッド)

<タイタニック>の乗客たちは『主よみもとに近づかん』をうたいながら海の藻屑と消えたのではなかった。あの事故はまた、”予期せざる神のおぼしめし〟でもなかった。<タイタニック>の船主である<ホワイト・スター・ライン汽船会社>は安全よりもスピードを優先したのであり、スミス船長はその意向に従って、<タイタニック>をフル・スピードで氷山群の中に進入させたのだ。

「さあ!今日は、ドナルド・A・スタンウッドの『エヴァ・ライカーの記憶』を紹介するよ!」
「ふーん。これは何?ミステリーなの?」
「そう。あの有名なタイタニック号の沈没事件を題材にした…というか、あの事件にまつわる隠された巨大な秘密をテーマにした、超巨編なの!」
「タイタニックって、大昔に事故で沈んだ大型客船だよね。映画で見たことはあるけど」
「それだけ知ってれば大丈夫。これは、あの事件を巡る、超大トリックの炸裂する、一大叙事詩ともいえる作品なんだよ!」
「ふーん。有名な作品なの?」
「この本を知ったきっかけは、高橋克彦のエッセイで大々的に紹介されてたのを読んだからなんだけどね。そこには、こう書かれているんだよ」

絶句。絶句。絶句なのだった。これだけあらゆる面白さが詰まっている(暗号。冒険。サスペンス。歴史)本をたった二百字前後で紹介できるわけがない。「1912年、豪華客船タイタニック沈没。1941年、アメリカ人観光客ハワイで惨殺される。1962年、大富豪ライカー、タイタニック遺留品引揚計画を発表ー時と所をはるかに隔てた三つの出来事を結ぶ糸は?」本の背カバーにはこう書かれてあるが、内容の面白さを百分の一も伝えていない。凄い小説だ。眠れなくなる夜をたっぷり三日間は保証する。
(『玉子魔人の日常』より)

「へえー、すごい煽るねえ。」
「高橋克彦といえば、『写楽殺人事件』から始まる浮世絵三部作などの超面白本を書いた人だからね。その人がこんなに勧めるなんって、ただ事じゃない、と思って、読んだわけ。そしたら…」
「どうなったの?」
「ぶっとんだ。最初から最後まで、寝る間も惜しんで読み耽っちゃった。まさに、超ド級サスペンスの巨編で、一度読みだしたら、もう、止まらなかった」
「へえ。それじゃあ、相当なもんなのね。どんな内容なの?」
「最初は、主人公の、若き日の、ある婦人との出会いから始まるのよね。ハワイで警官の職に就いていた主人公は、ある秘、路上で、パトカーの前に、さまよい出てきた一人の婦人に出会うの。」

マーサ・クラインとの出会いは、私にとっても彼女にとっても、ほとんど運命的だったと言っていい。(略)「夫を助けて!」大きく喘ぎながら彼女は叫んだ。「車が暴走しちゃったの!」(略)事故現場が見つかった。生々しいスリップの跡が、ハイウェイをまたいで崖っぷちにかしいでいる一九三五年型のフォードまでつづいていた。ハンドルの陰にくずおれている人影が、フロント・ガラスの割れ目から見えた。(略)男は死んでいた。(略)「主人は殺されたんだわ。毒を盛られて」(略)わたしたち夫婦が、どんな苦難をのりこえてきたか、あなたは知らないでしょう。わたしたちは、新婚そうそうに、あの<タイタニック>にのりあわせていたのよ」

「主人が毒殺された、このところ怪しい人影が夫妻のまわりをつきまとっていた、そいつに殺されたに違いない…という夫人の言葉を、主人公は信用せず、いったんホテルへ彼女を送り届けるのね。そして、翌朝、調書を取るために彼女の部屋を訪れるの。そこで見たものは、原型を止めぬまでにバラバラの肉片に切り刻まれ、ハンガーに吊るされた彼女の惨殺死体だった…」

「(略)鑑識の連中が現場に着いたところ、手足や内臓が部屋中に飛散していたんだ。バラバラにされた死体は、最初ゴム・シートに包まれて、ドレス・バッグにつめこまれていたんだな。顔も、識別がつかないまでに切り刻まれていてね。指の指紋がパスポートや他の所持品についていたそれと一致したので、なんとかマーサ・クラインと断定できたようなものさ」

「主人公、ノーマン・ホールはその後警察をやめ、十年後には、大きな成功を収めたジャーナリストになっていたの。そこへ、とある仕事が出版社の社長じきじきから依頼される。」

「実はね、ノーマン、今年の五月は例の<タイタニック>が沈んで、ちょうど五十年目にあたるんだ。(略)その筆者として、きみに白羽の矢を立てたんだがね」

「その企画のバックには、ウィリアム・ライカーという大富豪が、海底に沈んだ<タイタニック>から、潜水艇を駆使することで、遺留品を引き上げたいというプロジェクトが動いているという話を聞かされるの」

「彼はアメリカの経済界に隠然たる勢力を有しています。石油業界、保険業、鉄道業。(略)彼の奥さんも、<タイタニック>に乗ってらしたんです。生存者の中には含まれてなかったんですけどね。(略)ライカー夫人のボディガードと女中も、やはり助からなかったらしいんだ。ただ一人、娘のエヴァだけが助かったんだそうだよ」

「<タイタニック>という要素に因縁を感じた主人公は、これを機に、自らの過去も含めて、一篇の記事にしたてようと、調査を開始する。まずは、<タイタニック>号の生き残りであったと言っていた、殺されたマーサ・クラインの周辺から調査を開始する。運よく、クライン夫妻が事故後住んでいた家の隣人を探り当て、訪ねるの。そこで、夫妻を付け狙っていたらしい怪しい男たちが確かにいた、という証言を得る。いっぽう、<タイタニック>号からの引き揚げ作業中に、ある大発見があったのよね。」

沈没直前の同船内を映したと思われる貴重な実写フィルムの引き揚げに成功した。このフィルムは五十五年間海底に眠っていたもので(略)

「ところが、突然、このフィルムは隠匿されてしまうの。対外的にはフィルムには何もうつっていなかった、という体をとってね。ノーマンは、これは、ライカー氏による圧力ではないかと類推する。また、かつて<タイタニック>で勤務していた老人を取材したところ、その直後に彼が殺害される。どうやら、この事件の背後には、とてつもない怪しい影が潜んでいるような気がする…ノーマンの探求は続くの。いまは中年になって、スペインで放埓な暗しをしている、ライカーの娘、エヴァを訪ねて、

「あれは母の命を奪った船よ。わたしはもう、思い浮かべるのさえいやだわ」
「エヴァ、きみのお母さんがなぜ亡くなったか、どうしてもわからないんだ。お母さんは一等船客だったわけだから、救命ボートにも最初に乗り込めたはずだろう。(略)きみの過去に関心を持っている人間は少なからずいるようだ。きみと同じように、あの日、<タイタニック>に乗っていた人間が、すでに三人殺されている。」

ノーマンは、遂に、密かにライカー亭に忍び入り、極秘の文書を入手する。どうやら電報文らしい。が、そこに書かれていたのは、まるで意味をなさない英文の羅列だった…彼は、妻と協力して、悪戦苦闘の末、暗号を解読する。すると、そこには、驚くべき事が書かれていた…。そして、その発見と共に、出版社から、この件から身を引くようにとの圧力がかかる。ノーマンはそれを、ライカーからの脅迫によるものと見当をつけ、ライカーと直接対峙する。そして、駆け引きの末、二人は、ライカー所有の潜水艇に乗り込んで、<タイタニック>の沈む深海へと降りていく…。

深度一万一千フィート。(略)そのときだった。どんよりと濁っていた眼下の視界が晴れて、<タイタニック>が忽然とその巨体を現したのは。かつての超豪華客船は、右舷に八十五度傾斜して横たわっていた。赤茶色に錆びつき、軟泥や貝類に被われてこそいるものの、船体はほぼ原形を留めている。

その後も主人公ノーマンは、何者かに命を狙われるの。乗っていたヘリコプターに細工されて、あやうく命を落としかけたり。そして、ある日、かつて「何も映っていない」、とされた、引き揚げられた遺留品のフィルムを、ひょんな事から、見せられる。そこには、タイタニックに喜々として乗り込む人々の姿とともに、ある四人の女性が映っていた…。

「これはライカーの妻、クレアさ。そして、この少女がエヴァだ。(略)残るはこの若い男女だ。(略)さて、だれだと思う?」(略)「なんとういういしいカップルじゃないか。マーサ・クラインとアルバート・クラインは(略)いまスクリーンに映ったあの若い女性は、二十年前、ホノルルでぼくが出会った、あのマーサ・クラインに間違いないよ。(略)そこで問題は、なぜライカーがこのフィルムの公開を拒んだのか、ということになる。」

「さあ、ここから物語は急転直下、信じられないような大転換を見せていくのよね。いままでもやもやしていた、ピースの破片の数々が、アッと驚くような離れ業で、ひとつの巨大な真実に収斂してゆく。もう、読んでて、ワクワクを超えて、空恐ろしささえ感じたよ。」
「へえ。そんなすごかったの?」
「中でもすごいのは、後半、沈没当時のタイタニック号の内部の描写に入ったところね」

「船が急速に浸水しています!」(略)「沈没まであとどのくらいもつと思う?」(略)「せいぜい、一時間半から二時間というところでしょう」
ボートは船橋の近くの左舷と右舷に四隻ずつ、船尾の左舷と右舷にやはり四隻ずつあり、それらを全部合わせると、一一七八名の人間を収容することができるはずだった。が、この日曜の夜、<タイタニック>には、ニニ〇七名の人間が乗っていたのである。
(略)いまその周囲には、暴徒と化した船客たちが先を争って押し寄せていた。(略)<タイタニック>は、第二煙突の一まで水没して、海面に垂直にそそり立っていた。
エヴァはアングリと口をあけて、ぶらついている自分の足の四百フィート下に泡立っている海水を見おろした。聖クリストファーの像を抱いていた老人が、耐え切れずに手を離し、エヴァの脇を落ちていった。(略)その姿はみるみる小さくなり、豆粒大になって海面に墜落した。(略)エヴァの二十フィート下の通風孔には、ダイヤのネックレスに首を締められた老婦人が、紫色の舌を突きだして揺れていた。後部マストにぶらさがった数百人の乗客たちは、次々に手を離して墜落していく。

「こんな感じで、もう阿鼻叫喚の地獄絵図が、これでもかこれでもかと描かれるわけね。そして、裏に隠されたあっと驚くべき謀略も、その恐ろしい姿を、気味悪く、圧倒的に、その姿を現してくるわけよ。この歴史にからんだ大トリックには、読んだ人はみな、その壮大さと意外性に茫然とするはずよ」
「ふーん。話だけ聞いてると、なかなか面白そうではあるね。ところでお姉ちゃんの持ってるその本、大分古そうなんだけど、いつ頃の本なの?」
「これは1979年に文藝春秋から出た初版ね。その後文春文庫からも出たけど、これもいまは絶版。現在手に入るのは、東京創元社が出した創元文庫の復刊版じゃないかな。こっちは2008年に出ているね。帯に、有栖川有栖さんの、『これぞエンターテインメントのフルコースにして、異色の本格ミステリ』という宣伝文が書かれているね。」
「へえー。知る人ぞ知る作品かと思ったら、案外有名なんだね。」
「作者のスタンウッドは、この作品を大学時代から書き始め、二十八歳で完成させたそうなんだよ。大学の創作科に身を置き、一章、また一章と書き続け、クラスでそのつど発表していったとの事なの。そのあまりの面白さに、クラスメートは驚嘆していたということらしいね。ただ、残念なことに、二作目が売れず、そのまま作家は廃業しちゃったようなんだけど…」
「ふーん。人ひとりが生涯かけてとりくんだ力作ってわけだね。」
「そう、これ一作で、ミステリー史上に、完全に名声を残したよね、スタンウッドは。ぜひ、読んでみてね!」

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