「聖処女」(室生犀星)

十五番館は春のころには罌粟(けし)屋敷といわれ、芝生に隣った花園いっぱいに美しい罌粟の花が咲いていた。(略)ここに寄宿している神学少女たちはことごとくといってもよいくらい、どこか型の異なった、それぞれ畸形児に似た特徴を静かな物腰や、蒼白い不健康な皮膚の上に見せていた。(略)どうにもならない孤児同様な境遇の娘たちであった。

「さあ、今回は、室生犀星の『聖処女』よ!」
「むろう…さいせい?なんか、歴史で習った名前のような…」
「そう、詩人としても有名で、『抒情小曲集』の、『ふるさとは遠きにありて思うもの…』という詩で有名なの」
「ずいぶん昔の人じゃない?いったい、いつごろの作品なの?」
「昭和十一年(1936年)らしいよ。」
「昭和…って、しかも戦前?そんな本今売ってんの?」
「単行本になったあと、昔角川文庫から出てたんだけどねー。いまは、絶版かな。」
「ちょっと、お姉ちゃん、いくらなんでも、古すぎじゃない?これを読んでる人、読もうと思っても、手に入らないじゃない?」
「集英社の日本文学全集の33巻『室生犀星集』にも入っているよ。」
「それにしてもさあ…hontoどころか、アマゾンでも売ってないような本、どうしろっての?そんなの取り上げて大丈夫?」
「いいの!ここは、あたしが自分勝手に選んだ徹夜本を紹介するページなんだから!」
「もう、自分勝手なんだから…本当に面白いの?それ」
「そう、冒頭に示したような文章で始まるの。まあ神学校と言うことになってるけど、体のいい孤児院ね。そこに入ってる本田閃子と言うひとりの少女がこの話の主人公なのね」

たいていの悪戯は閃子が発頭人だった。ダンロップの歩調を真似て歩くのも閃子であり、あろうことか夜寝るときにひとりでにふざけてお臀を叩いて、部屋じゅうを駆け廻ったのも、美貌の母と姉を持っていてその境遇を皆から不思議がられている閃子であった。(略)
その閃子がこの春、十五番館を脱出した満知子にさまざまな便宜を与えてやったことは、誰も知らない素早い芸当の一つであった。(略)二年目とか三年目とかに決って十五番館を飛び出して行方不明になる者がいた。(略)突然ひと晩のうちに姿をくらますのであった。薄情は当然に行われていて一度とに出した女はまたと帰ってこないし、何をしているやらいっさい判らなかった。
皆が寝しずまった十時半ごろに、壁ぎわの床に先刻からまんじりともしないでいた春木春子が、そっと起き上がって畳のへりのところを踏んで忍び寄ると、閃子は毛布をふうわりと除けて人ひとり横になるだけ、床をあけるのだった。(略)
「耳、かしてちょうだい!」
「ええ」春木は耳を閃子の口に持って行った。
「これは、秘密なんだけれど、わたしここを出ようと考えているの」
「脱出者になるのね」(略)
閃子は川島舎監に睨まれて以来、些細な事がらにも意味をつけ加えて、いやが上にもあてつけられてならなかった。(略)それに最も悪いことは春木と閃子とを除いたほかは、ことごとく舎監組になり細かいことごとに舎監に告口されることであった。みんな固まって閃子の一挙一動を執拗に見詰めているようで、気を楽に持つごとができなかった。しかも閃子の姉が何か汚らわしい女のように吹聴していたコック貞代は、どこから聞いてきたか閃子の母がかつて妾をしていたことまで、女学生たちにいつの間にか触れ歩いていた。(略)
「わたしも連れていってちょうだい!」(略)
「いっしょに出てもあなた生活できる自信がある?」
「まるでないけど働くつもりでいるわ。いっしょに働くことにしましょうよ」
「ではいっしょに脱けでることに決めるわ」(略)
不安と憂慮はあったが、閃子も春木の顔にすれすれに自分の顔を寄せ、手を握り合い、もし心というものに形があるものなれば、二人の心と心が相擁いて泣きじゃくってるに違いなかった。

「そんなこんなの日々のうち、ある事件が起こるの」

それから間もなく誰が言うでもなく閃子が十五番館を脱出する噂が立ち、(略)川島舎監はうむを言わせず閃子を舎監室に呼び入れると、いきなりぱたんと扉を後手に閉めてから言った。
(略)川島舎監はこれ以上憎みきれないように突然発作的に閃子の唇の先を、思わずつねり上げた。「何て素直でない方な。虫もころさない顔をしていて…」(略)「猫かむりのくわせ者!孤児同様なあなたは十五番館を飛びだそうと考えているんでしょう。」(略)
「わたし生涯御厄介になるとお約束したわけじゃございません!わたし、あなたにもう何も教えていただきたくございません。出ていきますとも!今からでもすぐに出て参ります!」(略)
「十五番館を出た人はみんな堕落してろくな者にならないんです。」(略)
「わたし堕落してもいいんです」
閃子は思いきってずばりとそう言うと、例のほんの少しばかりの笑みを曲げた唇の端にうかべた。
「それがあなたの本音なんですね。何て性悪な女だろう!よくもそんな下等な自暴自棄になられたもんだ」」
「先生にだけはわたし性悪な女になってみせますのよ」
閃子はそう言うと、くるっと扉の方に向いて部屋を出ていった。

こうして、十五番館を飛び出した閃子と春木は、閃子の母親と姉の家に転がり込んだの。でも、

「女が同時にいっしょに暮らせるものおかね。春木さんなんかまるで子供だし…」美貌ゆえに数限りない男の間を流離した元の妾上りのお慶は、訳なくせせら笑って本気に聞き入れなかった。

そこへ、ある男が姉を訪ねてくる。

「妹さんですか」蒲原泰介というこの人物は何やら異なったところのある清潔すぎるような閃子に一瞥を加えた時に、微かではあったが、弾き飛ばされるような不思議な清純な感じを受けたのであった。(略)
「ぼくはお姉さんの婿さんですよ。白状してみますとね」
蒲原なる人物は事もなくそう言うと、愛隣の情に堪えないというような目つきを正直にむしろ露骨にあらわしていた。(略)
蒲原の心の底をでんぐり返しにしたものは、その美しい舐めてみたいような眼つきだった。どこでも見た事のない瞳であった。

この男は姉・真子の情夫、愛人だったわけね。しかも、いかがわしい事業で金儲けした、愛人を何人も掛け持ちする、ドン・ファンだったわけ。

「おれはああいう眼をしていた女なんて初めて見たんだよ。どう言っていいかな、近寄るとその美しさで追い出されそうな気持なんだよ。」(略)少し悲しげな苦り切った顔つきで、逢ったばかりでいきなりおれのような汚れ切った人間の眼を殴りつける「美しい眼」の事を言うのである。

「この男をはじめ、閃子の母親の元へは、さまざまな過去に関係のあった男立ちが出入りしてくるわけよね。昭和初期って、こういう時代だったのよね。女が一人で生きていくには、誰かしら脛に傷を持つ男の世話にならなければならない…閃子の姉もそうだったわけ。」
「ふーん。そうだったの?」
「だって、昭和初期よ?警官はおいコラと威張ってるし、差別はひどいし、島田荘司のいう『威張り屋が幅をきかす時代』よ。女はだまって男のいうなりに、背をかがめて生きていかなくちゃならなかったのよ。女三界に家なし、ってとこね。」
「へえ。」
「さあ、ここから閃子の大冒険が始まるわけよ」

「お母さん、いったいああいう変な人たちが何人来ればおしまいになるの。どの人も皆わたしの名前まで知っていて、どの人にもわたし厭な取り返しのつかない気持ちを見られているような気がするんですもの」
「皆わたしが悪かったから、-いつもいい気になって、あとさきを考えなかったからさ(略)つまりわたしという人間はばかだったからなんだよ」
「では男の方はみんな利口だったんですか」

「そして、そんな男のひとりに、」

「あなただってあなただってお母さんを虐め抜いた一人なんでしょう。(略)そんな方は早くおかえりになるがいいわ」

「と、啖呵を切るのね。そして、こんな破天荒な、正義感に燃えた彼女の行く先々、色んな事件が巻き起こってくる…。カフェの女給、株屋、女社長、学生、文学青年、会社ゴロの男…などなど。それらの男どもは、みな、、彼女の奔放実直な物言いに、翻弄され、また彼女をなんとかモノにしようと画策し、大事件がおこっていくのよ。」
「へえ、昔の小説にしちゃあ、何か、派手な感じで面白そうね。」
「まあ、今の目で見ると、そんなに突き抜けてアイデア的に面白いというわけではないかもしれないけど…」
「そうなの?」
「まあ、私の持ってる、角川文庫版の、すっかり黄ばんで、しかも旧かな使いの本を読んだせいもあるかもしれないね。古典小説にも、こんな破天荒な作品があるんだ!と、ページを繰る手が止められなかったもの」
「へえ。」
「だから、持ってるこの本の古さと中身のギャップが、ますます感じられて、ちょっと過大評価しすぎたかもしれないけど、十分、面白い本よ。それに、この作者の室生犀星について調べてみると、もっと興味深くこの本の意味が分かってくるのね」
「ふーん、どういうこと?」
「この本の作者、室生犀星も、孤児に等しい生まれ、しかも、そんじょそこらの孤児よりもはるかに劣悪な環境に育った人だったんだよ。犀星は、ある老人と、女中との間に生まれた私生児だったの」

明治以前の徳川時代なら、その子は生まれると同時にいわゆる間引きによって闇から闇に葬り去られただろう。また今日なら当然妊娠中絶の手段がとられたであろう。ところがこの時代は、そのどちらの手段もとることができなかった。そのために犀星は生まれることができたのであったが、生まれてすぐの生後七日目に、名前さえつけずに、(略)雨宝院という寺の住職、室生真乗の内縁の妻赤井ハツの手にわたしてしまった。(略)赤井ハツは、もらい児を養育することを一種の職業、内職にしていたのだ。世間体を憚る不義の子を、その親元から多額の養育費をもらって、家事にこきつかい、大きくなれば、女なら娼婦として売り、男ならば勤めに出して給料をもらう。(略)この義母の赤井ハツは、馬方ハツというあだ名があり、貰い子たちをあごで使い、(略)女だてら昼間から友人たちを呼び、肌ぬぎして大酒を飲み、(略)そして近所にどなりこみ横車を押す、皆が怖れて敬遠する体の、気性の強い、ヒステリイの手に負えない莫連女であった。(略)この肉体的虐待は目を覆うものがあるが、(略)深夜まで狂態を演じ、もらい子の姉を娼婦に売りとばし、朝から上機嫌で酒盛りをする、そんなほとんど想像もできないような光景を毎日見せつけられて犀星は育ったのである。(略)地獄絵さながらの世界である。
(奥野健男「作家と作品・室生犀星」)

「犀星の小説デビュー作は、『幼年時代』といって、実家の母や義母とのとの睦まじいやりとりや、嫁に行く姉とのあわい交流を描いた短編なんだけど、実際は実母とは、数回しか会えず、あげくに行方不明となり、生涯会えなかったし、姉は義母によって娼婦に叩き売られていたのね」
「ふーん。ひどい話っちゃ、ひどい話よね」
「そこでこの『聖処女』よ。これは、孤児院育ちの少女が、自分たちを痛めつけてきた男たちを代表する、当時の社会に、まっこうから復讐していく話なのよね」

キリスト教孤児院という逆境に育った少女が脱出し、その美貌と才気を武器に社会を闊歩し、次々にエゴイズムの鬼である男たちをきりきり舞いさせ、女友達を救い、(略)作者は憧れの美貌の女性の中に自己を一体化させ、自分を虐待したすべてに復讐する。(同)

「もう作者の積年つもった怨念がもろに爆発しているわけよ。これが、犀星作品のなかでも、この小説に、他のどれともちがう、痛快で冒険的な面白さを与えてる最大の理由じゃないかな」
「ふーん」
「実は犀星のほかの作品…『あにいもうと』『性に目覚める頃』『或る少女の死まで』『蜜のあわれ』なんかも読んだんだけど、名作とされているそれらの作品は、ちょっと甘くて、あまり面白くなくて…。『聖処女』は、まったくそれらとは異質の、暴走冒険小説と言った感じで、ぴったりあたしの好みと合ってたのよね。まあ、世間的な評価は、低いんだろうけどね」

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